著名なミクロネシア研究家 ヘーゼル神父を招待
(上智大学での講演会にて。左からAPIC佐藤昭治常務理事(元駐ミクロネシア3ヵ国大使)、フリッツ駐日ミクロネシア連邦大使、マツタロウ駐日パラオ共和国大使、ヘーゼル神父、キチナー駐日マーシャル諸島共和国大使、APIC本多義人評議員、APIC佐藤嘉恭理事長)
ヘーゼル神父は1963年にミクロネシア連邦のザビエル高校に赴任して以来、長年に渡り教師・神父としてミクロネシアの人々と社会に貢献。教え子の中にはミクロネシア地域の歴代大統領・外相などのリーダーが数多くおり、ミクロネシア社会で最も尊敬されている。他方で、ミクロネシアの歴史、社会に関する研究でも著名で、The First Taint of Civilization, Strangers in Their Own Land, The New Shape of Old Island Culture, Making Sense of Micronesia: The Logic of Pacific Island Cultureなどの著書がある。
◆APIC×上智大学主催 Hezel神父による講演会
5月9日(水)には上智大学と共催で“Micronesia and Japan: The Islands that the Japanese Forgot”というタイトルのもと、ヘーゼル神父による講演会を上智大学国際会議室において開催しました。当日は、同神父の教え子である駐日パラオ共和国大使館のフランシス・マツタロウ(Francis Matsutaro)大使をはじめ、駐日ミクロネシア大使館のジョン・フリッツ(John Fritz)大使、駐日マーシャル諸島共和国大使館のトム・キチナー(Tom Kijiner)大使のミクロネシア3ヵ国の在京大使、上智大学の学生、卒業生、その他一般の参加者など約130名が出席し、講演会に関する関心の高さがうかがえました。
1.日本は、明治維新後世界の仲間入りをし、その頃ミクロネシアとも初めての交流をもちました。1890年代、はじめてカロリン諸島を訪れた日本の商船は、24人の駐在商人(その何人かは元サムライ)を島々に送り込み、当時太平洋で盛んだったコプラ市場の占有率を獲得しました。その商人達の一部、とりわけ森小弁(もり こべん)は島々の著名な家系の祖先となったのです。
2.1914年10月、第一次世界大戦が勃発し、日本とイギリスはミクロネシアの島々を含む太平洋のドイツ植民地を占領し、日本海軍は1920年までこれらの島々を統治しました。これにより、島民たちは30年の間に3つの植民宗主国に支配されることになったのです。(1885年~ スペイン、1899年~ ドイツ、1914年~ 日本)
3.新しく設立された国際連盟は、島々を委任統治領と定め、1920年、日本にミクロネシア地域(カロリン諸島、マーシャル諸島、北マリアナ諸島)の正式な統治権を与えました。その後1年弱の間に、日本は大勢の官僚たちをパラオに送り込むことで南洋庁の体制を築き、教会復旧のために外国人宣教師を招聘し、南洋庁下で島々を治める島民長たちを任命し、病院や診療所を地元住民のために開設しました。
4.日本統治時代の最も重要な革新は恐らく、島々に初の公立学校制度が設立されたことでしょう。それ以前、唯一の公的教育は宣教師たちによる小さな学校がわずかにあるだけでした。日本が導入した教育制度は3年間の基礎教育、優秀な学生には更に2年間の教育機会を提供し、算数、地理、道徳、日本語の話し方と読み方、そして体育と基礎的な職業訓練を含みました。若い島民に基礎知識のみならず「規律意識」をもたらした日本統治時代の教育制度は、島の人々の記憶に何十年経っても残っているのです。
5.日本統治時代の業績の一つとして、生産性と経済発展があげられます。従来、島民の主な収入源はコプラの生産でしたが、南洋興発会社や南洋貿易会社といった日本の企業はリン酸肥料の生産を拡大し、サイパンやその他領内の島々で熱帯野菜・果実・砂糖などの商業目的の農業を始めました。間もなく砂糖の生産は島の経済の中心となり、日本・沖縄からの4万人にのぼる移民に雇用機会を与えました。
6.産業基盤の構築とそしてそれを担う日本人移民の流入は島の生活に大きな変化をもたらしました。島々には日本の文化や風情を彷彿とさせる活気溢れる街ができ、下水設備や電気が整い、精肉店や骨董品店、酒屋、氷菓子屋、自転車修理屋、多くの食堂や呑み屋などで賑わいました。サイパンのガラパンのような大きな街には置屋や銭湯、映画館、豆腐屋、刀工、酒造店もみられました。これらの街に住む人々の大多数は日本人でしたが、その繁栄による好景気は島民の生活様式にも大きく影響しました。島民は日本食を楽しみ和服を身に付けると共に、流暢な日本語を話すようにもなっていきました。
7.その後、太平洋戦争によって25年間の全てが逆転しました。日本の敗戦後、ミクロネシアにいた全ての日本国民が本国へと送還されました。これは、日本人男性と島の女性の結婚と家庭の崩壊、商業・農業における専門知識・技術・経験をもつ人材の流出など、様々な結果をもたらしたのです。
8.とはいえ、約30年間の日本の統治は島の文化や言語に多くの痕跡を残したことはかわりません。戦火を逃れた日本統治時代の建造物は、戦後、政府施設として使われてきました。島民の日本食嗜好は今も変わらず、日本の古い言葉の多くが今でもなお、島の言葉に取り込まれたままです。恐らく、戦後まもなくミクロネシアを訪れた日本人観光客はその古い言葉を耳にし、懐かしく思ったことでしょう。
9.日本とミクロネシアは1世紀以上もの間、親密な関係を紡いできました。島々は日本を含む長い植民支配の時代から解放され、独立国家となりましたが、日本とミクロネシア3国(ミクロネシア連邦、パラオ共和国、マーシャル諸島共和国)は歴史を共有しお互い大切な「パートナー」であり続けることも事実なのです。
10.さて、今後この関係はどのように展開していくのでしょうか?
質疑応答の際にはたくさんの質問があり、講演会終了後には多くの人が会場に残って、ヘーゼル神父との交流を楽しみました。
上智大学講演会に先立つ5月7日(月)の夜に、APIC佐藤嘉恭理事長主催の歓迎夕食会が東京倶楽部にて開催されました。夕食会には、フリッツ駐日ミクロネシア大使、マツタロウ駐日パラオ共和国大使をはじめ、上智大学、津田塾大学、東洋大学等、多くの関係者が一同に会する機会となりました。
(佐藤嘉恭理事長主催夕食会)
(マツタロウ・パラオ大使(ヘーゼル神父の教え子)挨拶)
(ザビエル留学生とともに)
5月8日(火)に太平洋協会主催意見交換会と夕食会が開催され、ヘーゼル神父と太平洋専門家の間で活発な意見交換が行われました。
また、ヘーゼル神父は10日より長崎を訪れ、平和記念館、原爆資料館、ユネスコ世界遺産に登録勧告された潜伏キリシタン遺産などを訪問、さらに大阪府吹田市の「国立民族学博物館」を訪問し日本の専門家と意見交換を行った後、15日離日しました。
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