「バルバドス 歴史の散歩道」(その3)
第2部 イギリス人の植民地ビジネス
(現在のホールタウン市街)
バルバドス西海岸にホールタウンという町があります。
このあたりは観光立国バルバドスのなかでも外国からの観光客が多く行き交う場所で,ホテルや貸別荘,レストラン,ショッピングモールなどが軒を連ねています。
現在ホールタウンがある地点の沖合いに,1625年5月14日,「オリーブの花」号というイギリスの武装商船が錨を降ろしました。この船は何週間か前にブラジルでの取り引きをすませてイギリスに戻ろうとしていたのですが,進路を西に取り過ぎて,たまたまバルバドスに着いたのでした。
今からおよそ400年前の,この「たまたま」が,それ以降のバルバドス島の運命を決めることになります。
(ホールタウン付近の海岸。1625年、最初のイギリス船がこのあたりに着きました)
<はじめての入植者たち>
「オリーブの花」号の船長はジョン・パウエルという男でした。
島に上陸したパウエルと乗組員たちは,これがスペインやポルトガルの船がときどき立ち寄っていたという「バルバドス」という島で,どうやら噂どおり無人島らしいことを見てとりました。打ち棄てられた先住民の集落や生活の痕跡がところどころにあるのですが誰もいないのです。彼らは船に引きあげて,本国への帰路を急ぎます。
パウエルはイギリスに戻ると,さっそく「オリーブの花」号の出資者であるウィリアム・コーティーン卿に島のようすを報告しました。ロンドンで手広く商売をしていたコーティーン卿は「これはカネになるかもしれない」と思ったのでしょう。今度はジョン・パウエルの弟,ヘンリー・パウエルを船長とする「ウィリアムとジョン」号に出資してバルバドスに向かわせました。
1627年2月17日,この船は2年前に「オリーブの花」号が着いたのと同じ地点に到達しました。ただ「オリーブの花」号の時と違っていたのは,今回の乗組員およそ80人が入植者としてそのまま島にとどまったということでした(註1)。彼らはこの島がイギリスの所有物だということを示すため,上陸地点を先代の国王,ジェームズ1世にちなんで「ジェームズタウン」と名付けました。これがのちのホールタウンです。
このときのヘンリー・パウエルたちの入植がイギリス植民地としてのバルバドスの出発点となりました。ロンドンにいるコーティーン卿の意を受けて島の経営を任されたヘンリー・パウエルが,事実上バルバドスの初代植民地総督であると現在では考えられています。
<植民地ビジネスのはじまり>
パウエルに率いられた最初の入植者たちは,慣れない暑い気候や,水・食糧の不足,そしてマラリアに悩まされながらも,密林を切り開いて島の開拓を進めていきました。食糧になったのは,過去にポルトガルの船が残し繁殖していた野ブタや,当時オランダ領だった南アメリカ・ガイアナから移入したヤムイモ,キャッサバ,トウモロコシなどでした。彼らは島の西部から南部にむかって進んでいきました。
植民地ビジネスは初期投資をはじめてから収益が回収できるようになるまでに時間がかかります。鉱物資源のないバルバドスで,入植者たちはヨーロッパへの輸出用農作物を栽培するために土地を開墾し農園を経営するようになります。はじめのうちの主な産品はタバコ,ショウガ,インディゴ(藍),海島綿(註2)などでした。
コーティーン卿は,新たな入植者や生活物資をどんどんイギリスから送ってパウエルたちの開拓を支援します。コーティーン卿をパトロンとするこの島での待遇が悪くなかったこともあって,島の人口は徐々に増え,入植開始から2年後には人口がおよそ1800人となったという記録が残っています。
<島ごと盗まれた>
ところが間もなく,コーティーン卿の植民地ビジネスは別の人物に横取りされてしまいます。
先にふれた「ジェームズタウン」の地名の由来になった国王ジェームズ1世は,もともとはイングランドではなくスコットランドの王でした。1603年にイングランド・テューダー朝最後のエリザベス1世女王が世を去ったのですが,女王には後継ぎがなかったので,血縁があったスコットランド王ジェームズ6世が迎えられてイングランド王ジェームズ1世となったのです。これがステュアート朝のはじまりです。
ジェームズ1世の取り巻きのひとりにジェームズ・ヘイという人物がいました。イングランド王になったジェームズ1世と一緒にスコットランドからロンドンに出てきたヘイは,王により伯爵に叙せられて「カーライル伯」となります。バルバドスにせっせと投資していたコーティーン卿から島の利権を奪い取ったのは,このカーライル伯ジェームズ・ヘイです。
彼は伯爵に成り上がったものの,もとから浪費癖がひどくて借金漬けでした。そこで窮状を脱するために植民地ビジネスの儲け話を利用することを思いついたのです。彼は王室とのコネをフル活用して,ジェームズ1世のあとを継いで国王になった,息子のチャールズ1世を適当に言いくるめ,バルバドスの植民地利権をコーティーン卿から横取りしてしまったのです。詐欺まがいの行為で,バルバドス経営の国王特許状を手に入れたカーライル伯はさっそく,見たこともないバルバドスの土地1万エーカーについてロンドンの商人たちとリース契約を結び,得たカネで莫大な借金の一部を返済したのでした。
おさまらないのは,知らないうちにカーライル伯に島の利権をかすめ取られてしまったコーティーン卿です。不服を申し立てて,いろいろな方面から手を尽くしますが,あとの祭り。コーティーン卿には王室とのコネもなかったので結局泣き寝入りするハメになってしまいました。この経緯は島の歴史上,「バルバドス大盗難事件」と呼ばれています。
のちに述べることになるのですが,カーライル伯に安直に特許状を与えたチャールズ1世は,そのおよそ20年後,オリバー・クロムウェルによって首をとられてしまいます。そしてそのクロムウェルが,自分が治めるイギリスの言うことを聞かなくなった植民地バルバドスを討伐するため海軍艦隊を派遣することになろうとは,その時だれが予想したでしょうか。
<「悪代官」ハウリー>
さて,まんまとバルバドスを簒奪したカーライル伯は,島を統治するために腹心のヘンリー・ハウリーという人物を新たな総督として送り込むことにも成功します。1630年のことです。
新総督ハウリーが,ボスであるカーライル伯に命じられたのは,タバコなどの輸出による収益をとにかく上げること,そして入植者たちからできるだけ多くの税を搾りとることでした。理由はいうまでもなく,ピンハネした利益をカーライル伯が借金返済にまわすためです。
もとはロンドンの織物商人だったハウリーは総督の任につくと,まるで強欲な殿さまに送り込まれた「悪代官」のように振る舞いはじめます。これまでコーティーン卿の傘下にあった古参入植者たちへの迫害や税取り立ての容赦のなさは後世の語り草になるほどでした。
こんなハウリー総督の下で,もっとも辛酸をなめていたのは,当時,入植者社会の底辺にいた「年季奉公人」と呼ばれる人々でした。
<白人年季奉公人の悲哀>
昔のカリブのプランテーションの働き手というと,アフリカから連れて来られた黒人奴隷を思い浮かべる人が多いかもしれません。けれどもバルバドスなどカリブ・イギリス植民地で黒人奴隷が主要な労働力になるのは砂糖キビ栽培が本格化する17世紀半ば以降のことで,それ以前はヨーロッパ白人ーたいがいはイギリス出身ーの「年季奉公人」たちが肉体労働の担い手でした。
年季奉公人の多くは本国での貧困から逃れるために雇い主と5~7年程度の契約を結んで植民地に渡りプランテーション労働に従事した人たちでした。ほかに流刑者,逃亡犯罪人や,人買い業者に文字通り「誘拐」されてきた人などもおり,なかには子供も混じっていたということです。こういった人々の出身地はさまざまでしたが,プランテーション領主や役人など支配層が多かったイングランド出身者よりも,スコットランドやアイルランド,とりわけイングランドの従属的な立場におかれて貧しかったアイルランドの出身者が多かったといわれます(註3)。
こういう事情でやって来た白人年季奉公人たちの境遇がどんなものであったことは想像にかたくありません。別名「白い奴隷」とも呼ばれた彼らは,プランテーション領主から与えられる粗末な住居や食糧と引き替えに重労働に耐えなければなりませんでした。家内労働ならまだしも,カリブの炎天下での畑仕事はつらい作業で,後年の黒人奴隷ほどではないにせよ,人権無視のひどい扱いを受けていたのでした。ハウリー総督による入植者に対するきびしい税の取り立てのツケは,最終的にはプランテーションでこき使われる年季奉公人たちの肩にのしかかってきたのです。
1634年,こんな状況に耐えかねた年季奉公人たちによってバルバドス植民地はじめての蜂起が起きました。彼らが企てたのはプランテーション領主たちを襲ったあと,バルバドスに入港する最初の船を奪って故郷に逃げ帰ることだったのですが,ハウリー総督配下の8百人の民兵集団にあっけなく鎮圧されてしまいました。
<ハウリーの失脚>
イギリス本国にいたカーライル伯は,ハウリー総督をつうじて,バルバドスから上がる儲けを搾れるだけ搾りとっていました。しかし悪いことは長続きしないもので,借金まみれのまま1636年に46歳で世を去ります。息子のカーライル伯2世がまだ若かったため管財人が島経営の面倒をみることになりました。こうなると現地のハウリーはますますやりたい放題となります。カーライル伯2世や管財人のコントロールも効かなくなり,悪代官ぶりに拍車がかかってしましまいます。しかし,あまりの横暴がロンドンの王宮まで伝わることとなって,結局1640年にハウリーは総督を解任され失脚してしまいました。およそ10年にわたって総督の職にあり,その悪政で住民を苦しめた彼は,バルバドス植民地史上,最悪の総督として歴史に名を残すこととなります。
そんなハウリーでしたが,総督在任中に,結果的に見ればひとつだけ良いことをしています。それは,彼の悪政に住民の不満が最高潮に達していた1639年,議会を設置したことです。そうは言っても,これはひとえに住民の不満を反らすための懐柔策でしたし,議員に選ばれる資格があったのは,当時9千人近くになっていた島の人口のうち,ごく一握りの富裕な土地所有層に限られていました。しかし,これからさき見ていくように,世界中のイギリス植民地のなかで3番目に古いこの議会(註4)の存在はバルバドスのその後の歴史に少なからぬ影響を与えることとなります。
<ブリッジタウンの発祥>
バルバドスの植民地化当初,島の中心地はヘンリー・パウエルたちが入植の起点にした西海岸のジェームズタウン(のちホールタウン)でした。けれども開拓が進むにつれて,島民の活動の中心はもっと南にある大きな湾の周辺に移っていきます。
この湾に面し,島で最大の川(現在名:コンスティチューション・リバー)の河口にあった集落がしだいに島の首邑となって行政や商業の中心地として発展していきます。これが,こんにちのバルバドスの首都ブリッジタウンのはじまりです。湾の北端には港が築かれ,植民地時代には砂糖の積み出しや奴隷船の受け入れに使われていたのですが,現在ではカリブ海周遊の大型クルーズ船が何隻も停泊するブリッジタウン港となっています。
(ブリッジタウン市内を流れるコンスティチューション・リバー)
ブリッジタウンを擁するこの湾の名称は「カーライル湾」といいます。悪名高きハウリー総督の時代,彼のボスであったカーライル伯にちなんでこう呼ばれるようになったのです。
植民地になって間もないころの島にせっせと初期投資を行ったコーティーン卿から島の利権を横取りしたカーライル伯。現在,バルバドスの政治・経済・観光そして安全保障の面でも最も重要なインフラを備えた湾の名称が,詐欺師まがいのこの成り上がり貴族の名を冠することとなったのは歴史の皮肉というものでしょうか。
(第3部「ピューリタン革命とバルバドス」に続く)
(バルバドス国会議事堂。現在の建物は1870年代に建てられました)
(註2)海島綿(シーアイランド・コットン)は西インド諸島特産の綿花から作られる上質な綿で,ヨーロッパ人の到来以前から先住民によって栽培されていました。のちに砂糖キビが主要な産物になると,海島綿の栽培はしだいにすたれていきます。バルバドスでは現在も細々と海島綿の栽培が続けられていて,ごく少量の製品が高値でヨーロッパに輸出されています。筆者は島の加工場で製品化されたものを手に取ってみたことがありますが,絹のような光沢と滑らかな手触りに驚いたおぼえがあります。
(註3)こういう事情を背景に,かつてのバルバドスの白人社会では,イングランド系にくらべスコットランド系やアイルランド系の人たちを一段低く見る傾向が長期間にわたって残りました。たとえば,本稿(その1)冒頭で紹介したバルバドス・ヨットクラブでは,1924年の設立後しばらくの間,会員はイングランド系の富裕層ばかりで,(有色人種はもちろんのこと)年季奉公人を祖先にもつと見做されたスコットランド系,アイルランド系の人々が会員になることはできませんでした(2020年8月の同ヨットクラブ会報の記載による)。
(註4)イギリス植民地のなかでバルバドスに先立って議会が設置されたのはバージニアとバミューダです。バルバドスでハウリー総督によって創設された議会は,幾多の変遷をへて現在のバルバドス国会下院につながっていきます。
(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。)
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