「バルバドス 歴史の散歩道」(その12)
第7部 奴隷制廃止への道のり(続き1)
(イギリスの陶器メーカー「ウェッジウッド」社の創業者ジョサイア・ウェッジウッドが1787年に作った奴隷制反対運動シンボル・メダリオンに使われたデザイン)
<奴隷貿易禁止のもう一つの顔>
ここで、バルバドス植民地の宗主国イギリスにおいて奴隷貿易禁止法が作られる過程での外的な要因にも目を向けてみたいと思います。
外的な要因とは、フランス革命とナポレオンの台頭というヨーロッパ大陸の一大事のことです。
この動乱でイギリスは大陸対策に忙殺され、議会のほうも一時「奴隷貿易禁止どころではない」という状況におかれることになりました。
バスティーユ監獄襲撃をきっかけにフランス革命がはじまったのが1789年。革命の混乱のなかからナポレオンが登場し皇帝となったのが1804年です。これはウィリアム・ウィルバーフォースが奴隷貿易の禁止をめざしてイギリス議会で精力的に動いていた時期とちょうど重なっています。
1805年のトラファルガー海戦でネルソン艦隊が、イギリス本土侵攻を狙うフランス艦隊を破ったのに対して、ナポレオンが翌年、イギリスを経済的に締め上げようと大陸封鎖令をしいたことは前にふれました。興味深いことに、イギリス議会でウィルバーフォースの奴隷貿易禁止法案が日の目を見たのは、すぐそのあと、1807年のことです。
この法には、伝統的にアングロサクソン系の国々の法体系のなかに時として見られる「域外適用条項」--自国の領域外でも法律の適用を可能とする条項--が含まれていました。イギリス官憲は自国の船が奴隷貿易をするのを取り締まるだけでなく、外国船をも洋上で臨検・拿捕することが想定されていたのです。
大西洋全体が自分の縄張りだと思っていなければ出てこない発想ですが、いずれにしてもこのことは「奴隷貿易をしている」あるいは「その疑いがある」という理由(言いがかり?)をつけて奴隷貿易を続けていたフランス船をイギリスの軍艦が事実上攻撃することを可能にしていました(註1)。
ウィルバーフォースが人道的な立場からの純粋な情熱で、長い年月をかけてこの法律を成立に導いたことに疑いの余地はありません。けれども、議会の審議を経てできあがった法律は、大陸封鎖令で苦境に立たされたイギリスが宿敵フランスの海上活動にダメージを与えることにも一役買っていたのでした。「衣の下から鎧がのぞいていた」といったところでしょうか。
実際に、イギリスは西アフリカのシエラレオーネ植民地に奴隷貿易監視基地をおいて、自国船だけではなくフランスや、当時フランスに服属していたスペイン、オランダなどの船の「取り締まり」をおこなっていました。その際の戦闘行為で延べ数千人単位のイギリス兵が死傷したといわれます。「奴隷貿易は許されない」という錦の御旗のもと、事実上の戦争が遂行されていたのです。
<奴隷制の廃止へ>
1815年、ナポレオンは失脚しセントヘレナ島に流刑となりました。ナポレオン戦争の戦後処理のためのウィーン会議をへてヨーロッパが落ち着きを取り戻すと、イギリスでは奴隷制廃止に向けての動きが加速します。
奴隷貿易禁止法の生みの親となったウィルバーフォースは、こう考えていたようです。
「奴隷貿易を禁止すれば、植民地のプランテーションでは今いる奴隷とその子孫を温存しなければならなくなる。だから奴隷の処遇はしだいに改善されるだろう。また、奴隷を解放するのには一定の社会的条件が必要なので、奴隷制そのものの廃止は一気にではなく段階的に行うべきだ」
ところが実際には、奴隷貿易禁止法後もバルバドスなど西インド諸島での奴隷の扱いには改善がなかったという見方が大勢です。これには、アフリカからの若くて健康な奴隷の供給が途絶えたため(註2)、労働力が減ると同時に相対的に高齢化が進んで「ブラック企業の職場環境がさらに悪化」したことも関係していたと考えられます。
奴隷を取り巻く状況があいかわらず過酷だったことを示すかのようにカリブ各地のイギリス植民地では大きな奴隷反乱が相次ぎました。
まず反乱が起きたのはバルバドスで、これが先に紹介した1816年の「バッサの乱」です。続いて、1823年にデメララ(現在のガイアナの一部)において、そして1831年のクリスマスにはジャマイカで未曾有の規模の奴隷反乱が起きました。
イギリス奴隷貿易禁止法に先立つ1804年には、フランス植民地サンドマングが、奴隷反乱のすえに世界初の黒人共和国ハイチとして独立を達成していました。ハイチの独立はイギリスのカリブ植民地の奴隷たちにとっても将来への希望の灯火となる出来事でした(註3)。
バルバドス、デメララ、ジャマイカで起きた奴隷反乱はいずれもイギリス軍と植民地当局の武力で鎮圧されました。けれども、奴隷を使役する側の植民地プランテーション領主たちにしてみれば、ハイチ独立は悪夢のような前例でした。さらに、親元であるイギリスの奴隷貿易禁止法は、奴隷たちに「われわれはすぐにでも解放されるのでは」という、あられもない期待をいだかせる悪法と映っていました。奴隷労働で生活が成り立っていた植民地では、奴隷制廃止に対する支配層の抵抗感は宗主国よりもずっと強かったのです。
いっぽう、イギリス本国においては奴隷制廃止に向けての動きは勢いを増し、不可逆的なものになっていきます。人道的な観点から、という面はもちろんあったでしょうが、自国植民地のあちこちで起きる奴隷反乱を見て「なんかヤバいことになってきた」という雰囲気が醸成されてきたことも否定できないでしょう。
イギリスでは18世紀の末、西インド諸島産砂糖の不買運動が起きています。非人間的な奴隷労働で作られた西インド諸島の砂糖をボイコットし「自由な労働」で作られたアジア産の砂糖を買おうという運動です。
昨今、西側先進国の一部が、日本の近くにある某国の特定地域での「強制労働」で生産された製品を輸入するのは「人権上の問題がある」という理由でボイコットしていますが、こういった発想の原点はこの辺にあるのかもしれません。
1821年には、奴隷貿易の拠点のひとつとなっていた港町リバプールで、クエーカー教徒のジェームズ・クロッパーという人物が「反奴隷制協会」を設立します。その後、各地で反奴隷制協会が作られ、ロンドンの協会では重鎮ウィルバーフォースのほか何人かの国会議員も会員となりました。
1830年のイギリス議会選挙で、大地主層を支持基盤とするトーリー党(のちの保守党)に自由主義的なホイッグ党(のちの自由党)が勝利し、およそ70年ぶりに政権交代が起きたことも奴隷制廃止への追い風となりました。
奴隷制廃止は大衆運動の様相を見せるようになり、各地での反奴隷制協会の運動も、奴隷制の漸進的な廃止から即時廃止の方向へと傾いていきます。
こうして、カリブ各地での一連の奴隷反乱のショックもさめやらぬ1833年の8月23日、イギリス議会で「奴隷制廃止法」が成立し、イギリス本国およびそのすべての植民地で奴隷制が廃止されることとなりました。奴隷貿易の禁止から26年後、そして反奴隷制運動に生涯を捧げたウィリアム・ウィルバーフォースが73歳で世を去った1ヶ月後のことでした。
この法律が発効したのは翌1834年8月1日で、バルバドスでは毎年8月1日は「解放の日(Emancipation Day)」として国の祝日となっています。
<新しい社会階層>
ここまで、イギリスで奴隷貿易が禁止され、そして奴隷制自体が廃止されるまでの経緯を大まかにたどりました。
ではこのころ、バルバドス植民地では何が起きていたのでしょうか。
これまで見てきたように、この島では、プランテーション貴族(プラントクラット)がその何倍もの数のアフリカ人奴隷を苛酷な支配の下におくという2極構造が長いあいだ続いてきました。
しかし、18世紀から19世紀にかけ、ふたつの集団のあいだに新しい階層が現れてきます。
そのひとつは、独立自営農民層(ヨーマンリー)です。プランテーション領主層には属さないこの白人グループは、手に入れた小規模の農地で地道に作物生産をおこなっていたので「10エーカー農民」とも呼ばれていました。白人であるがゆえに学校に通うことができ、読み書きを覚えることができたこの人たちは、プランテーション貴族による支配体制の一画に食い込んでくるようになります。
そのころのバルバドスは苦難の時代に直面していました。害虫や野ネズミの大発生で砂糖キビ栽培が大打撃をうけたと思えば、アメリカ独立戦争で北米からの小麦、トウモロコシ、木材といった必需品の輸入価格が高騰。1780年には大型ハリケーンの直撃により壊滅的な被害をうけ、さらには天然痘や黄熱病が流行するなど、島はさんざんな目に遭っていたのです。
それに続いて起きたのがイギリスでの奴隷貿易禁止法成立とバッサの乱でした。宗主国での奴隷制反対運動の高まりと、バルバドスが危うく「第2のハイチ」になりかけた奴隷反乱は、それまで絶対だと思われていたプランテーション貴族による植民地支配体制への信頼を揺るがす出来事になりました。
このような中で、経済力と発言力をつけてきた独立自営農民たちは、1818年にマイケル・ライアンという男を編集長とする新聞「グローブ」紙を発刊しました。この新聞は、保守的なプランテーション領主たちの立場を代表する「ウェスタン・インテリジェンス」紙に対抗する論陣を張るようになります。
保守層は「ウェスタン・・」紙や植民地議会を使って、新興勢力である独立自営農民層とグローブ紙に反撃します。編集長ライアンは、「島の名士の面々を誹謗し、騒擾をあおった」という理由で告訴までされてしまいます。しかし、ライアン擁護のデモや集会が頻発するなか、裁判所は彼を無罪放免とし、保守層のメンツはつぶれてしまいます。
1819年のバルバドス植民地議会の下院選挙では、独立自営農民層を支持母体とする議員がはじめて過半数を得るまでになりました。
もっともこの頃は、プランテーション貴族の利益を代表する総督や上院の権限がまだとても強かったので下院の力を過大評価することはできません。それでもこの選挙結果は、バルバドスでもようやく中産階級が育ってきたことを物語っていました。
<有色自由民の役割>
ところで、バルバドスの黒人奴隷たちは、ハイチの独立やイギリスにおける奴隷制反対運動のことをどうやって知ったのでしょうか。
学校教育などとは無縁だった奴隷たちには、新聞や公文書を読むことはできませんでした。ましてや彼らを使役する側の白人たちがこれら都合の悪い事件のことをわざわざ奴隷に教えたとも思えません。移動の自由もなかった奴隷が、島の外から入ってくる情報にじかに接する機会は非常に限られていたはずです。
じつは、奴隷たちには情報源となる人々がいたのです。
バルバドスにアフリカ人奴隷が組織的に「輸入」されるようになったのは17世紀半ばのことでした。その後だんだんと奴隷の数が増え、日常のあるゆる局面で白人と黒人奴隷がいやおうなく一緒に暮らすようになると、異なる人種間で子供ができるケースが増えることになります。これはバルバドスにかぎらず他の植民地でもよく見られた現象です。そして、混血の子供の両親はほぼ例外なく“主人(マスター)である白人の父親と、彼が所有する黒人奴隷である母親“という組み合わせでした。
こうして生まれた子供がそのまま奴隷として扱われたり、闇から闇へと葬り去られたりしたことも多かったでしょう。けれども、なかには父親が認知して、奴隷ではなく白人社会の準構成員、つまり「有色自由民」(註4)となるケースがありました。一定以上の社会的地位と資産をもつ白人男性の血を引くがゆえに、自由民となることが可能だったのです。
有色自由民の多くは、このように白人と黒人の両親を持つ「ムラート」と呼ばれる混血の人々やその子孫でした。のちに述べることになりますが、奴隷解放後のバルバドスでは、黒人だけでなくムラートのなかからも非白人の地位向上やバルバドス社会の近代化に重要な役割をはたす人物が輩出するようになります。
なお、有色自由民のなかには、ムラートに比べれば少数ですが黒人奴隷出身者もいました。とりわけ優秀だったり、プランテーションでの功績が大きかったりと、理由はさまざまだったのでしょうが、マスターのおメガネにかなった黒人が、奴隷という身分から解放されて自由民となるケースもまれにあったのです(註5)。
バルバドスでは17世紀のあいだは有色自由民はごくわずかでしたが、18世紀をつうじその数は増え、19世紀に入ると急増します。1802年の住民調査では2168人だった有色自由民は1829年には5146人に、そして奴隷制廃止法が発効した1834年には7000人近く、全人口のおよそ6%になったという数字が残っています。
有色自由民のなかには、教育を受け、文字化された情報を理解できる人たちがいました。彼らは、白人社会に出回っている話題を直接聞くこともできたでしょう。と同時に、その出自から奴隷とも生活上の接点が多く、奴隷がおかれた境遇に義憤を感じる者もまじっていました。
島の内外でなにが起きているのかを奴隷たちに伝えていたのは、この有色自由民という階層に属する人々の一部だったのです。
島のいろいろな場所で、奴隷たちはプランテーション領主の目を盗んでは、新聞を読んでくれる有色自由民の周りに車座になって集まり、べつの植民地で起きた奴隷蜂起やイギリス議会の成り行きなどを熱心に聞いていたのです。新しい情報は口伝えに他の奴隷たちにも広がっていきました。
(「バルバドスのムラート少女」と題する1770年ごろの絵画)
1816年のバッサの乱で、蜂起の首領となった黒人奴隷バッサの相棒だったフランクリン・ワシントンがムラート自由民だったことは以前ふれました。
フランクリンは1782年ごろの生まれと考えられているのですが、父親は、なにを隠そう、バッサの乱の舞台となったベイリー・プランテーションの領主、ジョセフ・ベイリーだったのです。そして、母親はベイリーの下で働くムラート奴隷のリアでした。
ジョセフ・ベイリーはリアとの間にできた息子フランクリンを自由民にして、しかもある程度の財産を彼にのこす手はずまで済ませた後に世を去ります。
ところがフランクリンは、ムラートであるという理由によって裁判所での遺産相続手続きで「自分はジョセフ・ベイリーの息子である」と証言することが認められず、遺産を相続することができなくなってしまったのです(註6)。
このことはフランクリンを「グレさせる」きっかけとなってしまいました。しばらくあと、彼はある白人といさかいを起こした時に「殴るぞ」と脅迫したという罪状で半年間刑務所にぶち込まれています。
ジョセフ・ベイリーの死後、縁戚の白人の手にわたったベイリー・プランテーションのレンジャー(警備担当)をしていた奴隷のバッサと自由民フランクリンの付き合いが始まったのはこのころでした。
サンドマング(ハイチ)が奴隷蜂起によって独立したことや、イギリスで奴隷貿易禁止法が成ったことなどを、バッサたち奴隷に吹き込んだ知恵袋はフランクリンだったのでしょう。
当時の白人社会は、バッサの乱のような大規模な蜂起を黒人奴隷だけで組織するのは無理なので誰かが外から加勢したのだろうと察していました。「バルバドス史」(1848年)を著したロバート・ショムバーグは、バッサの乱について「島をあれほどの荒廃にみちびいた蜂起をくわだて、計画をねったのはフランクリン・ワシントンだったに違いない」と記しています。
ところで、バッサの乱の中枢部にはフランクリンのほかにもジョン・リチャード・サージャントとケイン・デービスというふたりのムラート自由民が加わっていました。
首領バッサは反乱の戦闘で討死しましたが、3人のムラートは官憲にとらえられます。反乱の後始末のためバルバドス植民地議会下院に設置された調査委員会の報告書によると、決起の際にジョン・リチャードが「お前たちはサンドマングの仲間たちと同じように戦わなくてはならない」と奴隷を鼓舞したとされています。そしてケインは「奴隷たちは自由になるべきだ。ウィルバーフォースがそう言ったと新聞で読んだぞ。・・・蜂起開始の合図にトウモロコシの束に火を放ったのは、この俺だ」と証言したともあります。
バッサの乱の鎮圧後、この3人のムラートは、反乱に加わった200人以上の黒人奴隷たちとともに処刑されました。
<女性実業家レイチェル>
フランクリン・ワシントンらのように悲劇的な生涯をおくった有色自由民もいた一方、白人優位社会の片隅で商売人として成功したり、プランテーションを手に入れたりする者もいました。
有色自由民の社会的ステータスや制度上の扱いには植民地ごとに違いがあり、たとえばジャマイカ植民地では職業選択や土地取得について厳しい制限があったのですが、バルバドス植民地はわりあい鷹揚だったようで、さほどの制約はありませんでした。
そのために、みずからの才覚を武器に上手に立ち回って、名をあげる有色自由民もあらわれたのです。
今でもバルバドス人のあいだで「レイチェル」の愛称で知られるレイチェル・プリングル・ポルグリン(1753〜1791年)という女性がいました。
島内だけでなく海の向こうからも商人や船乗りが多く集まってくるバルバドスの首邑ブリッジタウンには、有色自由民の女性が手がける食堂や宿屋がいくつもありました。レイチェルが経営する「王国海軍ホテル(ロイヤルネーバル・ホテル)」は、そのなかでもとりわけ繁盛する宿屋でした。
レイチェルはスコットランド系の父、黒人奴隷の母をもつムラート奴隷として生まれました。16歳の時にトーマス・プリングルというイギリス人海軍士官に買い取られ、彼が出したカネで自由民の身分を得てその愛人となります。そしてこのパトロン士官に買い与えられたブリッジタウン港ちかくの家で宿屋をはじめたのです。
トーマスはしばらくするとレイチェルを捨ててジャマイカに逃げてしまったのですが、彼女は容姿端麗な女性奴隷をかき集め「綺麗どころの従業員」として宿屋に雇い入れ、商売は大当たりします。
この「王国海軍ホテル」には逸話がのこっています。
宿の上客は、その名のとおり、島に寄港するイギリス軍艦の将官や水兵だったのですが、ときどきここに立ち寄っていたひとりの若い海軍将校がいました。
ある夜、この人物が泥酔して暴れ、宿をめちゃめちゃに壊してしまいます。レイチェルは翌朝、男に修繕費の請求書を突きつけました。素直に謝った彼が、請求された以上の大枚を払って弁償したのでレイチェルは前よりも立派な内装をほどこすことができたということです。
ここまではよくある話なのですが、このけしからん海軍将校の名はウィリアム・ヘンリー王子。ネルソン提督の旗下、カリブで海軍勤務をしていた王族出身のこの将校は、宿での泥酔事件から30年ほどのちにイギリス国王ウィリアム4世として即位し、セイラー・キング(船乗り王)の愛称でよばれるようになった、やんごとなき人物だったのです。
(ちなみに、ウィリアム4世は故エリザベス2世女王の高祖母ビクトリア女王の伯父に当たります。)
さて、レイチェルは、その後もおおいに儲けて周囲の建物や土地も買い取って資産をふやし、島でも有名な「女実業家」として名をはせるようになるのですが、ご想像のとおり、彼女のホテルもふくめ、この種の宿屋の多くは、実際のところいわゆる売春宿としての役割も兼ねそなえていました。
王子様がこんな場所でこんな不始末を起こせば、今ならメディアの格好の標的になって即炎上してしまうところです。とはいえ、事件はこうして歴史にしっかりと刻まれているわけですので、公人たる者、やはり振る舞いには十分に気を付けるべきと申せましょう。
それはともかく、見方によってはレイチェルは「風俗業界のやり手あねご」であったと言えないこともありません。けれども、日本や他の多くの国でそうであったように、その頃のバルバドスでもこういう稼業が必ずしも違法だったわけではないのです。
当時のものの本には「(西インド諸島では)こういう類いの生業は、奴隷の女性にとって収入を得てその金で自由を買うための唯一の希望であった。そのためにごく普通に広くおこなわれていて、恥ずべきこととも不名誉なこととも思われてはいなかった。むしろ人気のある女性は羨望の的であり、その女性もそれを誇りに思っていた」とあります(註7)。
たくましく生きたレイチェルでしたが、38歳という若さで病気のため亡くなりました。彼女は死の2日前に遺言をのこしていて、雇っていた19人の女性奴隷のうち6人に自由民の地位を得るための資金を与え、ほかの奴隷たちはその6人に引き取られたということです。
(レイチェル・プリングル・ポルグリン)
成功例をもうひとり。
ロンドン・ボーン(1793〜1869年)という黒人の自由民がいました。
ボーンの父親ウィリアムは奴隷でしたが、腕の良い職人だったため、小金をため込んで自力で自由民の身分を買い取ります。ボーンが生まれた時、父ウィリアムはもう自由民になっていたのですが、息子であるボーンの身分は奴隷のままでした。ということは、自由民の親から生まれた子供が自動的に自由民になれたということではなかったようです。
店を繁盛させたウィリアムは、ボーンが20代半ばのときに、奴隷身分のままだった自分の妻とボーンほか子供たちを「買い取って」自由民にしました。
父親のあとをついだボーンは、砂糖取引の仲介業で成功します。ブリッジタウンに何軒かの商店を経営するかたわら、今で言う「消費者金融」のような商売もはじめ、相手の肌の色を問わずカネ貸しをしていました。おなじく黒人自由民だったペイシェンスという女性と結婚し、7人の子供にもめぐまれました。
商才があっただけでなく人格識見ともになかなか立派だったようで、周囲から一目置かれる商人になったボーンですが、肌の色ゆえに悔しい思いもしています。
ブリッジタウンの羽振りのいい商人連中がメンバーとなっている社交クラブの会員になろうとした彼は、黒人であるという理由で入会を拒否されます。ところが、このクラブはボーンが所有する建物のテナントだったというのです。自分が賃貸しているスペースに足を踏み入れることが許されなかったというのですから当時の風潮おして知るべし。
それでも、へこたれないボーンは商売をひろげ、プランテーションも手に入れて、しまいには宗主国の首都ロンドンに輸出入代理店を開くまでになりました。代理店にはイギリス白人も雇用されていたそうで、これは当時としてはかなり珍しいケースでした。
イギリスそしてバルバドス植民地の奴隷制はボーンが生きているあいだに廃止されました。経営者として成功したボーンは晩年、貧しい黒人の教育普及や非白人の地位向上運動への有力な財政的支援者となりました。
彼の子孫にも著名な人物が出ています。
奴隷解放前の米国で自由民となった黒人奴隷たちが「故地への帰還」をめざして1847年に建国したリベリアという国が西アフリカにあります。
バルバドスからも新天地を求めてリベリアにわたった人々がいたのです。1865年に夫とともにリベリアに移住した、ロンドン・ボーンの娘サラとその子供アーサー・バークレーもその中にいました。
ボーンの孫にあたるアーサーは、のち1904年から1912年までのあいだ第15代リベリア大統領を務めることとなります。さらに1930年から1944年に第18代大統領を務めたエドウィン・ジェームズ・バークレーもボーンのひ孫にあたる人物です。
時代はくだって1997年。かつて、ボーンが入れてもらえなかった例の商人社交クラブがあったブリッジタウンの建物が老朽化のため取り壊しになりました。跡地にはバルバドス政府の福祉対策として低所得層用のアパートが建てられたのですが、この建物は現在、「ロンドン・ボーン・タワー」と呼ばれています。
(ロンドン・ボーン(Barbados Museum & Historical Society 公式Facebookページより引用))
(註1)フランスは、実はイギリスより先に一度、奴隷制を廃止したことがあります。
フランス革命勃発後の1791年、サンドマング植民地(のちのハイチ)でトゥーサン・ルベルチュール率いる奴隷反乱が起き、反乱軍は奴隷制の廃止を要求しました。これを受け、ロベスピエールのジャコバン派がたてたフランス第1共和制が1794年に奴隷制廃止を決めたのです。
ところがその後、クーデタで権力を掌握したナポレオンが1802年に奴隷制を復活しました。(ですからイギリスが奴隷貿易禁止法を導入した1807年の時点ではフランスは奴隷貿易をしていたわけです。)
ナポレオンによる奴隷制復活には、妻ジョゼフィーヌがバルバドスからそう遠くないフランス領マルティニーク島の没落貴族の家系だったことも影響していたという説があります。
奴隷制復活の知らせがハイチに伝わるとハイチ革命が勃発。1804年にハイチは独立を達成しました。
ナポレオンの失脚後、フランスは1820年にまず奴隷貿易を禁止し、1848年、第2共和制の下で奴隷制が廃止されました。
(註2)1807年のイギリス奴隷貿易禁止法では、違反した場合の罰金が奴隷一人当たり100ポンドと、罰則が軽かったこともあり、実際にはアフリカ奴隷の密貿易が小規模ながらも継続していました。後年の法改正で、長期の禁固刑やオーストラリア流刑など罰則が大幅に強化されたものの、密貿易はさまざまな形で19世紀後半まで続いていたと考えられています。
(註3)フランスはハイチの独立を認める代償として、1825年、ハイチ側に賠償金の支払いを要求し、実際に支払わせました。その額は現在の価値にして約280億米ドルとされ、ハイチが元本と利子・手数料を完済したのは122年後の1947年でした。
2003年4月、ハイチのアリスティド大統領(当時)は、フランスに対し支払った賠償金の返還を要求しました。
2015年5月、オランド・フランス大統領(当時)がハイチを訪問した際、「フランスはハイチに借金を返済する」と発言してハイチ側を喜ばせたものの、すぐ次の訪問先のフランス領グアドループで「借金というのは(法的・資金的な意味でなく)倫理的な借金という意味だった」と釈明したというお粗末な話があります。
(註4)「有色自由民」は「フリー・カラード・ピープル(free coloured people)」の和訳です。「カラード」とはつまるところ「非白人」あるいは「純粋な白人ではない」ということで、あまり耳ざわりの良い言葉ではないのですが、ほかに適当な日本語訳が見当たらないので、本稿ではこの言い方を用います。
(註5)バルバドスでは、白人が自分で「所有」する黒人奴隷を解放することについて、初めのうちはこれといった制約はありませんでした。
しかし、病気や高齢で働けなくなったりした奴隷を経費節減目的で「解放」してプランテーション外にほっぽり出す例が増えたため、1739年に、解放にあたっては一定の金額を植民地当局に支払うことが義務付けられました。
(註6)バルバドスでは当初、有色自由民には自分が関わる裁判で証言する権利が認められていたのですが、1721年に法律で禁止されました。この権利が回復されたのは1817年、バッサの乱の翌年です。
これは、バッサの乱で黒人奴隷側にまわった有色自由民の数は実際には非常に少なく、多くは白人側にくみし反乱を鎮圧する側についたために、彼らに「褒美」を与える必要があったためでもあると考えられています。
(註7)イギリスの奴隷制廃止論者(アボリショニスト)ジョージ・ピンカードが著した「西インド諸島の記録(Notes on the West Indies)」(1806年)の中の記述。
(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。)
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