一般財団法人 国際協力推進協会
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「バルバドス 歴史の散歩道」(その16)


 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い

寄稿:前・駐バルバドス日本国大使 品田 光彦
「バルバドス 歴史の散歩道」(その16) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い
(バルバドス国旗)

 バルバドスがイギリスから独立した1966年11月30日、ブリッジタウン郊外ギャリソン・サバンナの広場で独立記念式典がおこなわれました。そしてこのとき、イギリス国旗ユニオンジャックが掲揚塔から降ろされて、はじめて独立国家バルバドスの国旗が掲げられました。

 バルバドス国旗のデザインは、縦に3等分された真ん中が金色、これをはさんで左右両側が群青色(ウルトラマリーン)という配色で、群青色はバルバドスの空と海を、金色はビーチの砂を象徴したものです。旗の中央には黒色のトライデント(三叉の槍)が描かれています。トライデントを見ると、その柄が途中で折れて短くなっているのがわかります。

 独立前のバルバドスには「植民地旗」というものがあって、これは宗主国イギリスの国旗にバルバドス植民地のエンブレムを組み合わせたデザインになっていました。エンブレムは、海上を進む2頭だての馬車に、海神ネプチューンのトレードマークであるトライデントを手にしたイギリス国王(または女王)が乗っているという図柄でした。

 339年にわたったイギリスによるバルバドス島統治の象徴であるこのトライデントの柄をへし折ることにより、植民地支配のくびきを脱して独り立ちする新生バルバドスの心意気をしめす、というのが新国旗にこめられたストーリーなのです(註1)。

 バルバドスは宗主国に対する武力闘争や革命を経ることなく徐々に自治を拡大しながら平和的に独立したのですが、そこに至るまでにはさまざまな紆余曲折がありました。本章では独立までのおよそ30年間の動きを追っていきます。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その16) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い
(バルバドス植民地のエンブレム)

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<グラントリー・アダムスの登場>

 1930年代にバルバドスをはじめとする西インド諸島イギリス植民地のあちこちで争乱が起きたことをうけて、イギリス政府は調査委員会を立ち上げました。委員会は、一連の騒ぎの原因が、アフリカ系が大多数である植民地住民がおかれた差別的な地位、劣悪な労働条件や生活苦にあることを指摘します。このため、イギリス本国政府や各植民地の現地当局は、ガス抜きのために、しだいに住民の労働組合運動や政党活動に寛容な姿勢をとるようになります。

 バルバドスでは“1937年蜂起“のはやくも翌年には「バルバドス労働党(BLP)」という政党が結成されました(註2)。さらに1941年には労働組合の連合組織である「バルバドス労働者連合(BWU)」が結成されます。バルバドスの内政はこのあとしばらくの間、BLPとBWUを車の両輪として展開していくことになります。

 この動きの中心となった人物は、前章でちょっと顔を出したグラントリー・アダムス(1898〜1971年)です。彼はBLP発足時には副党首でしたが、すぐ翌年には党首となります。そしてBWUでは設立当初から総裁をつとめました。

 アダムスはバルバドス南部のセントマイケル教区の黒人家庭の生まれで、父親は小学校の教師でした。島の名門ハイスクール、ハリソン・カレッジを優秀な成績で出たアダムスは奨学金をえてイギリスのオクスフォード大学で学び弁護士資格をとります。1925年にバルバドスにもどった彼は、弁護士として開業するかたわら、クリケット(註3)のバルバドス植民地代表チームのメンバーとしても活躍します。

 この文武両道のアフリカ系グラントリー・アダムスが、はじめからわき目もふらずに非白人同胞たちの生活水準向上や権利拡大のために奮闘したというのであれば話は簡単なのですが、史実はそれほど単純ではありません。

 彼はオクスフォード大学在学中、イギリス自由党(註4)に入党しています。自由党は、もともと自由主義的な産業資本家の影響が強い政党で、組合運動を重視する中道左派の労働党とは一線を画す政党でした。アダムスの政治生活の出発点は、宗主国イギリスの支配秩序を重んじるこのブルジョア政党だったのです。

 彼の初期の政治傾向をものがたるエピソードがあります。前章において、バルバドスで非白人や貧困層の意見を代弁していた新聞「ヘラルド」の反骨のジャーナリスト、クレンネル・ウィッカムが、その記事のために侮辱罪で訴えられたという話を紹介しました。訴えをおこしたのは、貧富の差を糾弾するウィッカムの記事のやり玉にあげられたある金持ちの白人商人だったのですが、この商人の弁護士をつとめた若く有能な弁護士はほかでもないグラントリー・アダムズだったのです。訴訟に敗れたウィッカムが島を去り、「ヘラルド」紙が廃刊に追い込まれたことも前述のとおりです。

 アダムスは、バルバドスの独立への道すじを民衆にしめす先導者になったという意味あいで、のちに“民衆のモーゼ“とよばれるようになりました。また、現在バルバドスにある唯一の国際空港は彼の名にちなんで「グラントリー・アダムス国際空港」とよばれています。アダムスはつまり、バルバドス独立への道を切り拓いた国民の英雄なのです。

 けれども、オクスフォード帰りのエリートだった彼は、はじめのころは非白人一般大衆のリーダーというよりも旧来の支配秩序に重きをおく島の白人を中心とする保守的エスタブリッシュメントの一画に加わっていたのでした。この点、アダムスとおなじくイギリス帰りながら、クレンネル・ウィッカムと組んで当初から大衆活動、労働組合運動に傾倒していったチャールズ・ダンカン・オニールとは異なる路線をあゆみはじめたのです。

 アダムスのこういった傾向に変化が見られるようになったのは、彼が1934年に下院議員に当選したころからです。非白人ながらもそれまでは順調に植民地社会ヒエラルヒーの階段をのぼってきたアダムスでしたが、白人保守層が牛耳る政治の世界に足を踏み入れたことにより、同胞たちが抱える困難を実感するようになったのでしょう。

 そこに例の“1937年蜂起“が起きます。島外追放処分を言い渡され、大衆蜂起のきっかけとなった人物、クレメント・ペインの弁護役をすることになったのはアダムスでした。とはいえ、この時期にもまだアダムスには逡巡があったようで、いろいろ文献を見てみると、彼はペインの弁護役を喜んでかってでたというよりも、どうやら優秀な黒人弁護士であるアダムスを見込んだ周囲の声に押されて“いやいや“引き受けざるをえなかったというのが正直なところだったようです。

 けれども、多くの死傷者を出すこととなったこの蜂起の結末をみて、人種間の差別を克服し生活水準を向上させるためには、過激な扇動活動や無統制な大衆運動ではなく、秩序と平穏をたもちながら一般民衆の要求をくみとっていかなければならないとアダムスも腹をくくったようです。こうして彼は、みずからの人種的同胞たちの地位や生活改善のための政治活動に積極的にかかわるようになります。そしてこの過程では、白人支配層エリートと対等、いやそれ以上の知識と教養をそなえ弁舌もさわやかなアダムスを押したてる周囲の声と期待が彼の背中をおしたにちがいありません。

 ただ、バルバドスの一部の人たちには反論されるかもしれないのですが、筆者は、この時点でアダムスが目指していたのはあくまで一般大衆の生活の向上と植民地社会の安定であって、島の独立まではまだ具体的に頭にえがいてはいなかったのではないかと考えています。アジア、アフリカなどのイギリス植民地ではこの時期、独立運動は起きていたものの、最大の植民地、インドとパキスタンが独立を達成したのは、第二次大戦後の1947年。そしてスーダンやガーナといったアフリカ諸国が独立しはじめるのは、それからさらに10年ほどあとのことです(註5)。バルバドスなど西インド諸島イギリス植民地の多くは、外部の世界との連絡や物資補給が容易ではなく、いざという時の逃げ場もない、小さくて非力な島々でした。彼らにとって独立というのはまだ遠い夢だったでしょう。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その16) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い
(グラントリー・アダムス)

「バルバドス 歴史の散歩道」(その16) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い
(バルバドスの空の玄関口、グラントリー・アダムス国際空港)

<力をつけてきたBLP>

 さて、バルバドス労働党(BLP)を率いることになったアダムスは、ヒュー・カミンズ、ワインター・クロフォードといった党の仲間たちといっしょに党の政治声明文書をつくりました。

 この文書は、富の公平な分配を重視する社会主義的イデオロギーを色濃く反映した内容で、「バルバドスで作り出される富は、島という共同体を代表する政府が富の源泉を保有し管理するようになってはじめて公平に分配されるようになるだろう」と主張しています。具体的には、一定以上の規模の砂糖生産施設の公有化、最低賃金の保障、年金制度の導入、義務教育の無償化、住宅供給促進によるスラム街の一掃などを提案する内容となっていました。

 イギリス本国や西インド諸島イギリス植民地全域で労働組合運動に追い風が吹くなかで、1939年にはバルバドス議会でも労働組合法が成立します。1940年の下院選挙ではBLPは、24議席中、アダムスを含む5人が当選。その翌年には、アダムスを総裁とし、彼が見い出した若手、ヒュー・スプリンガー(1913〜1994年)を書記長とする「バルバドス労働者連合(BWU)」が創設されました。この時点ではBWUは事実上、BLPのなかの“労組担当局“のような位置づけだったのです(註6)。

 そのころ宗主国イギリスからバルバドス植民地に派遣されていた総督はグラッタン・ブッシュという人物でした。BLPがもはや無視できない政治勢力になったことをみてとったブッシュ総督は、アダムスを「執行委員会」のメンバーにくわえます。この委員会が、“妥協を知る男 “ - コンラッド・リーブスの奔走で19世紀の末に設立された、事実上の「植民地政府」の役割をになう機関であることは本稿第8部でふれましたが、ようやくここにきて非白人がそのメンバーになったわけです。

 アダムスのもとで、BWUの影響力を背景に党勢を拡大したBLPは1946年の下院選挙で9議席を獲得。7議席をとった新政党「西インド国民会議党」(註7)と連立を組んで、ついに下院の過半数を占めました。

 これをみたブッシュ総督は、アダムスに4名の執行委員会メンバーをみずから選ぶようはじめて任せます。執行委員会のメンバーは、それぞれが財務、治安など行政の重要分野を担当するようになっていて、事実上の「大臣」の役目をはたしていました。ですからこれは、立憲君主制や象徴大統領制の国において、選挙後に議会多数派リーダーが元首から首班指名を受けて組閣するのと同じ仕組みを導入しようとしたものです。イギリス本国から派遣されたブッシュ総督がこうしてすこしずつ自治植民地政府の体裁をととのえていったプロセスは「ブッシュの実験」とよばれています。

<普通選挙までの道程>

 時代の潮流としては、島の少数白人富裕層による富と権力の独占から、多数をしめる非白人・労働者層のほうに重心がうつりつつあったのは明らかです。しかし、ここでネックとなっていたのが参政権の制限という問題でした。

 植民地住民の選挙でえらばれるバルバドス下院は、1639年にハウリー総督によって設立(本稿第2部)されて以来、およそ2世紀のあいだ、選挙権、被選挙権ともに一定以上の土地・財産をもち相当額の納税をしている21歳以上のイギリス系富裕層白人男性に限られていました。これが制限つきながらもユダヤ人と非白人男性の一部に拡大されたのが1831年です。

 その後、議会内でのサミュエル・ジャックマン・プレスコッドやコンラッド・リーブスの奮闘の甲斐あって1884年に選挙権付与の基準がかなり引き下げられました。それでも、1905年の時点で選挙権があったのは全島でわずか1604人--人口の100人にひとり、というのが実情でした(註8)。選挙権はたいへんな特権だったのです。

 “1937年蜂起“のあと、改革が進むなかで、第二次大戦中の1943年、基準がさらに引き下げられたうえで、その要件をみたす女性にも投票権があたえられます。そして、大戦後の1950年にあらゆる制限が撤廃され、人種、性別、財産、納税額などにかかわらず21歳以上のすべての成年男女を対象とする普通選挙制度が導入されました(註9)。ここにいたって、奴隷解放後も長くつづいたプランテーション領主や大商店経営者などといった少数の白人による政治支配をささえた制度的な壁がようやくとり払われたのでした。

 普通選挙制度のもとでバルバドス下院選挙がはじめておこなわれたのは、制度導入翌年の1951年のことです。選挙にさきだち、砂糖生産者連合、つまり白人中心の経営者側と、グラントリー・アダムスがトップをつとめるBWUとのあいだに利益配分についての協約がむすばれ、さらには有給休暇制度や賃金交渉の枠組みについて合意ができました。こうしたこともあって、選挙では、おなじくアダムスひきいるBLPが24議席中16議席を獲得して圧勝しました。

<第二次世界大戦とバルバドス>

 グラントリー・アダムスがバルバドス植民地の政界で実力を発揮するようになったのは第二次世界大戦の時期とかさなっています。

 アメリカのすぐ南でメキシコ湾への入口をなし、パナマ運河やトリニダード油田、ベネズエラ油田を擁するカリブ海は大戦中の大西洋における戦略的要衝でした。また、この海域ではアメリカ、イギリス、フランス、オランダなどが、バルバドスほかたくさんの島々を植民地や保護領としていたので多くの港が存在していました。そのため、カリブ海はこれら連合国による石油・物資の海上輸送を、枢軸国 - ドイツとイタリア - が潜水艦を使って執拗な攻撃をしかける海戦の舞台となりました。

 イギリス領トリニダード島のポワンタピエールにはイギリス最大の製油所が、また、オランダ領キュラソー島には当時世界最大の製油施設だったロイヤル・ダッチ・シェル製油所がありました。大戦がはじまるとこのトリニダード島とベネズエラの石油が連合国側にとって重要度を増すことになります。地中海経由での中東石油の輸送がイタリアの妨害でとどこおるようになったからです。

 石油資源とは無縁のバルバドスもドイツの攻撃でとばっちりを受けています。1942年9月11日、カーライル湾に停泊していたカナダの商船「コーンウォリス号」がドイツ潜水艦・Uボート514の魚雷攻撃を受けたのです。湾の周りには潜水艦の侵入をふせぐためのネットが張りめぐらされていたのですが、その外側からUボートが発射した魚雷はネットを突き破って商船に命中し船底に穴をあけました。

 前章で紹介したジョージ・ラミングの自伝的小説「私の肌という城の中で」に、このときのようすを描いたくだりがあります。

 <ある日の午後四時過ぎ、港で大きな商船が魚雷攻撃をうけた。町はゆりかごのように揺れ、人々はてんでに逃げまどった。戦争がバルバドスまでやってきたのだ。僕たちは潜水艦というものを見ようと大挙して防波堤にあつまった。砲弾がおおきな唸り声のような音をたてると野次馬たちは興奮して走り回った。彼らは数ヤード逃げたかとおもうと、潜水艦見たさにすぐに駆けもどるのだった。商船の船体はゆっくりと海面下に沈んでいく。僕たちのほとんどにとって船が沈むところを見るのははじめての経験だった。・・・・
 けれども考えてみるとドイツ人たちは戦争ですべきことをしただけだ。バルバドスがリトル・イングランドと名乗るからには、それによって生じる結果を甘んじて受けねばならないのだ。そのうえ、こんな噂もながれていた。イギリスの首相が戦争を宣言したとき、バルバドス総督が島民たちの願いをいれて「勇敢で偉大なイギリスよ、進撃してください。リトル・イングランドはあなたについていきます」という電報を打ったのだと。・・・・>

 浅瀬に停泊中だったコーンウォリス号は、沈没はせず海底に乗り上げるかっこうとなったため、そのご修理されてふたたび航行可能となりました。しかし、この船はあまり運がよくなかったようで、2年後にアメリカ・メイン州の沖合でふたたびドイツ潜水艦の魚雷攻撃をうけ、今度はほんとうに沈没してしまったということです。

<エロール・バーロウ、故郷にもどる>

 第二次大戦が連合国側の勝利におわって数年。グラントリー・アダムスがバルバドス植民地の政治の舞台で出世街道をあゆんでいたこの時期に、エロール・バーロウ(1920〜1987年)という青年がイギリスから島に帰郷しました。アダムスより22歳年下のバーロウは、大戦中、イギリス空軍の戦闘機乗りとして活躍し、戦後イギリスで高等教育を身につけたあと故郷にもどってきたのです。

 グラントリー・アダムスの同志となり、のち政敵に転じ、そして独立国バルバドス初代の首相となって「バルバドス独立の父」と称されるエロール・バーロウは、島最北端のセントルーシー教区の黒人家庭に生まれました。父親レジナルド・バーロウはバルバドスや米国領バージンアイランドでイギリス国教会の牧師をしていました。ところが、この父親はどこに行っても教会の上役や教会の財政的パトロンである白人富裕層と折り合いが悪く喧嘩ばかりしていて、あげくは国教会からアフリカ・メソジスト・エピスコパル(AME)教会(註10)に宗旨替えしてニューヨークに渡ってしまいます。

 このためレジナルドの妻、ルースは5人の子供を連れてブリッジタウンにある自分の実家、オニール家に身を寄せました。エロール・バーロウはきょうだいたちと一緒にオニール家で育つこととなるのですが、幼いころの遊び友だちのひとりに近所に住んでいた年上のいとこ、前出のヒュー・スプリンガーがいます。また母ルースの兄、つまりバーロウの伯父にあたるチャールズ・ダンカン・オニールはこのころすでに「バルバドス民主連盟」を結成して政治活動を本格化していました(本稿第8部)。スプリンガーやオニールが、のちのバーロウの政治志向に影響をあたえたことは想像にかたくありません。

 バーロウが島でハイスクールを卒業したころヨーロッパで第二次大戦が始まります。彼が宗主国イギリスの軍隊勤務を志願して1940年に島から旅立つ直前のエピソードは前章でふれたことがあります。バーロウは軍への入隊を志願する同期12人のバルバドス植民地出身者のひとりとして渡英しました。

 空軍に配属となった彼は、まずイギリスで通信技術を、つづいてカナダでナビゲーション技術の訓練をうけ、カナダからイギリスにもどると空軍戦闘機に搭乗するナビゲーター軍曹となります。そして、ヨーロッパ戦線で連合軍とナチス・ドイツのあいだで戦われたアーネムの戦い、バルジの戦いなど50回もの実戦出撃に加わりました。死線をくぐりぬけた彼は生還し、終戦時には少尉まで昇進したのですが、かつてバルバドスからイギリスに渡った同期の仲間のうち半数の6人は大戦中に戦死しています。

 バーロウは戦後、軍を除隊になったあと、退役植民地軍人奨学金をえてイギリス法曹院とロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で同時に学びはじめました。

 すでにそのころには彼のリーダーシップには優れたものがあったとみえて、LSEでは学内の「植民地出身学生評議会」の議長に選ばれています。筆者は、このLSEでの経験がバーロウの世界観と将来に決定的な影響をあたえたのではないかと思っています。LSEにはカリブ地域のイギリス植民地から、のちにガイアナ独立後の初代首相となるフォーブス・バーナムやジャマイカ首相となるマイケル・マンリーがバーロウと時をおなじくして留学していました。さらには、シンガポール独立後、約30年間にわたって同国の首相をつとめることとなるリー・クワンユー(李光耀)も在学していたのです(註11)。また、ちょうどそのころ、インドとパキスタンが長い脱植民地闘争のすえにイギリスからの独立を達成していました。バーロウら、イギリス植民地出身のいずれも20代の若者たちは自分たちの故郷の独立にむけた夢を熱く語り合っていたことでしょう。

 LSEと法曹院をともに優秀な成績で卒業し法曹資格も取得したエロール・バーロウが大志を抱いてバルバドスに帰郷したのは1950年のことでした。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その16) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い
(イギリス空軍時代のエロール・バーロウ(左から2番目))

(第9部 「そして独立へ--トライデントの誓い」は次回に続きます。)



(註1) 国旗のデザインはバルバドス独立を前にして島内公募されました。採用されたのはハイスクールの美術教師、グラントリー・プレスコッドという人のデザインでした。

(註2) 「バルバドス労働党(BLP)」は結党後まもなく「バルバドス進歩連盟」と改称され、数年間この名称で活動したあと、ふたたび「バルバドス労働党」の名にもどりました。本稿ではまぎらわしさを避けるため「バルバドス労働党」に統一して記述します。

(註3) イギリス統治が長かったバルバドスでは、いまでもクリケットがもっとも人気のあるスポーツです。11人いる“バルバドス国民英雄“のひとりには、イギリス文化圏では知らない人のいないバルバドス出身の伝説的名クリケット選手、ガーフィールド・ソバーズ(1936年〜)が名をつらねています。
ただ、筆者はバルバドスに住んでいた当時、ルールもなにも知らずにクリケットの試合を見にいったことがあるのですが、熱狂する観衆のなかで、ひとり筆者にはやたらと試合が長くつづくこのスポーツのいったいどこが面白いのかさっぱり分かりませんでした。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その16) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い
(クリケット試合のようす(打席にいるのがガーフィールド・ソバーズ))

(註4) イギリス自由党はホイッグ党の後身政党。19世紀末から20世紀はじめに党勢がさかんになり、第一次大戦後に政権をにぎったこともありましたが、その後、労働党におされしだいに勢力を失いました。

(註5) これらアジアやアフリカのイギリス植民地の独立にさきだって、イギリス自治領(ドミニオン)だったカナダ連邦、オーストラリア連邦、ニュージーランド、南アフリカ連邦、アイルランド自由国、ニューファンドランドが、1931年、イギリス議会がウェストミンスター憲章を採択したことにより完全独立しました。ただし、これらはいずれも「白人」自治植民地だったことに留意する必要があります。
なお、ウェストミンスター憲章で大英帝国 (ブリティッシュ・エンパイア )は終わりを告げ、イギリス連邦 (コモンウェルス )が成立しました。

(註6) ヒュー・スプリンガーが西インド諸島大学の開学を手伝うため1947年にジャマイカに移った際、フランク・ウォルコット(1916〜1999年)がBWU書記長のポストをつぎました。
ウォルコットはその後、約50年にわたりBWUの要職をつとめます。バルバドス独立後は政府が国内最大の雇用主となったため、主要政党であるBLPからBWUを分離させるプロセスをウォルコットが主導しました。なお、グラントリー・アダムスは1954年までBWU総裁の地位にとどまりました。
ヒュー・スプリンガー、フランク・ウォルコットは、グラントリー・アダムスとともに「バルバドス国民英雄」に名をつらねています。

(註7) 西インド国民会議党(略称「会議党」)は、グラントリー・アダムスとともにBLPの創設メンバーだったワインター・クロフォードがアダムスとたもとを分かって1944年に設立した政党。イギリス国教会への公的支援の廃止など、BLPよりも急進的な路線をかかげていました。1955年にエロール・バーロウが民主労働党(DLP)を立ち上げた際にクロフォードがDLPに合流したため会議党は事実上消滅しました。
なお、この党の名称が、同時期のインド独立を主導した「インド国民会議派」の影響を受けたものであったことは明らかです。

(註8) A-Z of Barbados Heritage, P.148

(註9) 1962年に選挙権は21歳以上から18歳以上に引き下げられました。
ちなみに、日本では男性の普通選挙権が認められたのが1925年、女性が普通選挙権をえたのは太平洋戦争後の1945年でした。

(註10) 「アフリカ人メソジスト監督教会」ともいう。18世紀末、独立後の米国でアフリカ系の人々が教会での人種差別からのがれるために築いたキリスト教の宗派。現在、世界におよそ200万人の信者がいるとされます。

(註11) バーロウは、シンガポールから来た優秀な学生、リー・クワンユーにはとりわけ強い印象をうけたようです。バルバドスとさほど面積がかわらない小さなシンガポールが独立後、リー・クワンユーのもとで経済発展する過程をバーロウは注目しており、自身最晩年の1986年のスピーチのなかでもシンガポールを国づくりの手本として賞賛しています。



(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。) 

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