一般財団法人 国際協力推進協会
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「バルバドス 歴史の散歩道」(その17)


 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い(続き)

寄稿:前・駐バルバドス日本国大使 品田 光彦
「バルバドス 歴史の散歩道」(その17) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い(続き)
(「バルバドス独立の父」エロール・バーロウ)

<アダムスvs.バーロウ>

 バルバドスにもどったエロール・バーロウは、さっそくグラントリー・アダムス率いるバルバドス労働党(BLP)に加わり、早くも翌1951年の下院議員選挙に立候補し当選しました。

 故郷にもどったばかり、弱冠31歳のバーロウがすんなりと政治家としての道を歩みはじめることができたのは、彼自身の大戦中・戦後のイギリスでの立派な経歴によるところもあったでしょう。とはいえ、バルバドス労働運動の創始者、チャールズ・ダンカン・オニールを伯父にもち、グラントリー・アダムスの右腕、ヒュー・カミンズをいとこにもつというバーロウの血筋もモノをいったことは否定できないところです。

 けれども、イギリスでの勉学中に他の植民地出身者たちと交流をふかめて脱植民地主義思想の洗礼を受けたバーロウが、宗主国中心の考え方から抜け出しきれないアダムスBLP党首の路線に違和感をおぼえはじめるのに時間はかかりませんでした。

 グラントリー・アダムスの保守性をものがたるエピソードはいくつかあります。

 第二次大戦後、発足まもない国際連合で脱植民地運動の声が高まりました。国際世論を操作するのが得意なイギリスは、自国がとってきた植民地政策を正当化するために植民地出身の黒人を利用することを思いつきます。このときイギリスが起用したのがアダムスでした。1948年、アダムスはイギリス国連代表団のメンバーとして、はじめて国連でスピーチをした黒人のひとりとなったのですが、そのスピーチがイギリスの植民地統治システムを擁護するような内容をふくんでいたとして、アダムスは世界各地の独立運動家からの批判にさらされたことがあります(註1)。

 また1953年、カリブ海に面した南米のイギリス直轄領ギアナ(現ガイアナ)において、左翼政党「人民進歩党」が選挙で大勝し政権をとったときのこと。植民地の共産化を懸念したウィンストン・チャーチル首相のイギリス政府は植民地憲法を停止して軍事介入しました。そしてチェディ・ジェーガンほかの人民進歩党幹部をパージして代替政権をつくったのです。政権から放逐された人たちの中には、かつてロンドン・スクール・オブ・エコノミクスでエロール・バーロウとともに学んだフォーブス・バーナムも含まれていました。
グラントリー・アダムスは、イギリス領ギアナでのこの事件後、バルバドスから宗主国イギリスの政府に電報を送ってこう伝えています。
「ジェーガンとその同調者たちにまつわる我々の経験からいえるのは、このような人物はイギリス領西インド諸島に害をおよぼすであろうということです。憲法停止というのは残念なことではありますが、我々がそれよりはるかに憂うべきなのは、民衆の利益よりも共産主義のイデオロギーを優先するような政府が存続することでしょう」(註2)

 1951年のバルバドス下院選挙後、与党BLP内では、独立について旗色を鮮明にしないグラントリー・アダムスら古参幹部たちと、エロール・バーロウのまわりに結集し早期独立をめざす若手急進派のあいだの意見対立が表面化します。

 1954年にはいってまもなく、バーロウはBLPとの決別を表明し、翌年にはT.T.ルイス、ジェームズ・キャメロン・チューダー、フレデリック・スミスなど26人の仲間とともに新政党「民主労働党(DLP)」を旗あげしました。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その17) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い(続き)
(西インド諸島連邦首相をつとめたグラントリー・アダムス)

<「西インド諸島連邦」 -- アダムスの栄光と蹉跌>

 バルバドスが植民地でありながら自らの閣僚制度をもつようになったのは、バーロウらの造反でBLP党内がざわついていた1954年のことでした。もともとあった、例の「執行委員会」の各メンバーの所掌にあわせて「大臣」のタイトルが正式にあたえられ、委員会の首班は「首相」とよばれるようになったのです。これによって、バルバドスはイギリス領西インド諸島のなかではこの時点で唯一「首相」職をもつ自治植民地になります。植民地自治政府初代の首相となったのはグラントリー・アダムスでした。

 もっともこの動きの裏には、前年のイギリス領ギアナでの事態に懲りて、バルバドスほか西インド諸島の急進化・左傾化をふせぐために穏健な勢力の温存をこころみる宗主国イギリスの深謀遠慮と、これを現地で実行する総督による“ご指導“があったのだとみることができます。

 この時点でイギリスとしては、カリブ地域植民地の完全独立をなんとかくい止めて、かなりの程度思いどおりあやつれる「自治領(ドミニオン)」の地位にとどめておこうとしたのでしょう(註3)。そう考えると、西インド諸島のなかでも“リトル・イングランド“とよばれるほどイギリスの影響が強く、政情も安定していたバルバドスにまず自治植民地のステータスが与えられたことも腑におちるのです。

 植民地自治政府の首相になったこのころがアダムスの政治家としての絶頂期だったようです。1956年の下院選挙で、彼のBLPは24議席のうち15議席をとって圧勝。BLPから分裂したバーロウのDLPは4議席にとどまり、しかもバーロウ自身は落選の憂き目にあっています。2年後の補欠選挙でバーロウは下院に返り咲いたものの、まだ新党DLPの力はとおくBLPにおよばなかったのです。いっぽうで首相に再任されたアダムスには1957年、イギリス王室からナイトの称号があたえられました。

 リーダーとしてのアダムスの地位はゆるぎないかのように見えました。ところが彼はここで決定的な情勢の読みちがいを犯します。アダムスは、バルバドス植民地自治政府の首相でありながら、1958年に創設された「西インド諸島連邦」の首相に就任するためにバルバドスを離れてしまったのです。

 この西インド諸島連邦については説明が必要です。

 かつてバルバドスでは19世紀後半に“連合危機“でひと騒ぎあったことは本稿第8部でふれたことがあります。その後もイギリス領西インド諸島の島々のあいだには「連合」や「連邦」のアイデアが生じては消え、また生じては消えてきたという歴史があるのです。バルバドスでは1876年の連合危機のあと、1884年にはこの島がいっそのこと、そのころすでにイギリス自治領(ドミニオン)となっていたカナダ連邦に加わってしまってはどうかという提案が、島内で砂糖産業の実権をにぎり影響力があった農業協会によりなされたことすらありました(さすがにこの案はすぐに立ち消えになりましたが)。

 政治的・経済的にひとり立ちすることが容易でないこれら小さな島々には、近代に入ってから、“単独でやっていこう“という気持ちと“ほかの島々と組んでみようか?“という気持ちのあいだでつねに葛藤がありました。ただじっさいには、おなじイギリス領とはいえ、島それぞれの歴史や制度、人種・民族構成、風俗習慣には少しずつちがいがありました。また、植民地として支配されているという共通の被害者意識でつながるいっぽうで、島同士のあいだでのライバル意識や、やっかみによる足の引っ張りあいもあって、統合はなかなか難しいものがあったのです。そして、こういった西インド諸島メンタリティーは植民地支配に長けた宗主国イギリスがこれらの島々を統治し操っていくにあたって、ときとして有効につかえるツールでもありました。

 西インド諸島連邦の構想は1930年代にはその萌芽をみることができます。ジャマイカ、トリニダード、ドミニカ、グレナダ、バルバドスなどの有力者たちが、イギリスからの自治権を拡大していくために共同戦線をはることを思いついたのです。イギリスは、はじめのうちはタカをくくってこの動きをなかば放置していましたが、しだいにいくつかの島が束になって急進化することを警戒するようになります。

 当時は第二次大戦前後という時期だったこともあって、連邦化議論は一進一退をくりかえしていました。しかし1947年になるとイギリス植民地省は状況をコントロール下におくため、ジャマイカのモンテゴ・ベイに自国領西インド諸島の代表を集めて会合をひらき、連邦化の是非について検討がはじめられました。バルバドスからこれに参加していたのは連邦化構想に強い共感をもっていたグラントリー・アダムスでした。

 50年代にはいると西インド諸島のなかの2大イギリス植民地であるジャマイカとトリニダードを牽引役として連邦化の推進に勢いがつきます。イギリスも、無理やり連邦化をとめるのは得策でないとみたのでしょう。1956年にロンドンで諸島の代表者たちを集めた会議がひらかれ、西インド諸島連邦の創設にむけて意見が一致します。このプロセスでイギリスが重用したのは、穏健かつ宗主国への忠誠心が強いとみられていたアダムスとジャマイカのノーマン・マンリー(註4)というふたりでした。

 こうして、イギリス領ギアナ(現ガイアナ)とイギリス領ホンジュラス(現ベリーズ)をのぞくカリブのイギリス植民地からなる「西インド諸島連邦」がつくられるはこびとなりました。

 ところがめでたしと思いきや、ここで2大勢力、ジャマイカとトリニダードのあいだに不協和音が生じます。“英語圏西インド諸島の盟主“の座にこだわるこのふたつの植民地が、連邦の首都を自分の島におくことについて互いに譲らず話がこじれてしまったのです。

 これをみたイギリスは、円滑な連邦化を“お手伝い“するために「イギリス領カリブ連邦首都選考委員会」なるものを立ち上げます。その委員長としてイギリスが投入したのはフランシス・ムーディー という熟練の植民地官僚でした(註5)。

 ムーディー委員長が連邦首都の第一候補として提案したのは、ジャマイカでもトリニダードでもなく、なんとバルバドスでした。対立したジャマイカとトリニダードの喧嘩を丸くおさめるためのイギリスの“推し“がバルバドスだったのです。

 おもしろくないのはジャマイカとトリニダードです。ジャマイカの著名な新聞コラムニスト、モーリス・カーギルなどは「バルバドスは西インド諸島の精神を共有する島ではない。あそこは階級と人種的偏見によって劣化した島で、世界最大の自然発生的な肥え溜めである」と、口をきわめて罵っています(註6)。バルバドスに駐在した筆者としてはいくらなんでもこういう言い方はないのではないかと申し上げたいのですが、他方で、これは“リトル・イングランド“バルバドスが周辺の島から、やっかみをも含めてどう見られていたのかを垣間見ることができる事例だともいえます。

 すったもんだの挙げ句、最終的にはトリニダード島のチャガラマスに連邦の首都をおくことで決着がつき、1958年になってようやく「西インド諸島連邦」が正式に発足しました。連邦に加わったのは、アンティグア、バルバドス、ドミニカ、グレナダ、ジャマイカ、モンセラート、セントキッツ・ネービス・アンギラ(註7)、セントルシア、セントビンセント、トリニダード・トバゴという10のイギリス領でした。

 ところが連邦は当初から機能不全に陥ります。連邦にとって不幸だったのは、トリニダードのエリック・ウィリアムズやジャマイカのノーマン・マンリーといった有力者が自分の島の政争に忙殺されて連邦の運営にあまり関与することができなかったことがあげられます。そこで連邦の初代首相に祭りあげられたのがバルバドスのグラントリー・アダムスでした。

 しかし、連邦にはイギリス植民地省から送られ大きな権限をもつ総督が首相の上におかれていたため、宗主国との権限関係などをめぐって内部でのいざこざがたえませんでした。また、連邦内の人の移動の自由や関税をどうするかといった基本的なことがらについてすら意見がまとまらなかったのです。

 結局のところ1961年にジャマイカが、翌年にはトリニダードが連邦から離脱し、西インド諸島連邦は発足後わずか4年で空中分解してしまします。そして、1962年8月6日にはジャマイカが単独でイギリスから独立し、同年同月31日にはトリニダードも隣接する小さな島トバゴと一緒にトリニダード・トバゴとして独立します。イギリス領西インド諸島のなかで最初にイギリスから完全独立したのはこの両国でした。

  貧乏くじを引くことになったのは、連邦の初代にして最後の首相となったグラントリー・アダムスです。彼は、連邦発足時にバルバドス植民地自治政府首相のポストを朋友ヒュー・カミンズにゆずってチャガラマスに赴き連邦首相のポストについていました。アダムスは、はじめから機能不全を起こしていた連邦の延命のためにそれなりに尽力したのでしたが、彼がバルバドスを留守にしているあいだに島ではエロール・バーロウ率いる野党、民主労働党(DLP)が着々と力をつけてきていたのです。島内では失業率が20%前後に達し、多くの島民がイギリス、アメリカ、カナダなどに出稼ぎに出るなか、雲行きのあやしい西インド諸島連邦などにアダムスが入れ込んでいたことで、彼のバルバドス労働党(BLP)への支持は下がっていました。

 1961年、アダムス不在のなかで実施されたバルバドス下院選挙でDLPがBLPに大勝しBLPは野党に転落しました。翌年の西インド諸島連邦の頓挫にともないバルバドスにもどってきたアダムスは、しばらくのあいだ無役となってしまいます。西インド諸島連邦という“ワケあり物件”に手を出してしまったアダムスは、バルバドスにおけるリーダーの座からもすべり落ちてしまったのでした。

<リトル・エイトの苦悩- -東カリブ連邦構想>

 選挙でのDLP勝利にともなって新たにバルバドス植民地自治政府の首相の座についたのは、いうまでもなくDLP党首のエロール・バーロウでした。

 バーロウは首相就任後すぐに道路建設、上下水道整備など積極的な公共投資をおこない有効需要をふやすことで島の経済を立て直し、失業率をさげることに傾注します。このあたりは彼がロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学んだであろう、当時主流だったケインズ経済学の影響をみることができます。また、砂糖産業一辺倒から脱却するためにイギリスなどからの海外観光客の受け入れ策にも力を入れはじめます。そのほかにも公立学校の完全無償化、学校給食導入や健康保険、労災制度の整備など教育・社会福祉政策は一般大衆の支持をえて、精力的にはたらくバーロウの指導者としての地位は固まっていきました。

 ところで、西インド諸島連邦が頓挫し、ジャマイカとトリニダード・トバゴがそれぞれ1961年、62年にイギリスから独立したと述べましたが、バルバドスが独立することになるのは1966年のことです。1961年の選挙にあたってバーロウのDLPはイギリスからの独立をマニフェストに明記もしていたのです。それなのにどうして、西インド諸島のなかではジャマイカやトリニダード・トバゴよりもむしろ政治・経済的に安定し、宗主国との関係もよかったバルバドスの独立が数年間おくれることになったのでしょうか。

 じつは連邦化をめざす動きは、ジャマイカとトリニダード・トバゴが離脱したときに完全に消えてしまったわけではなかったのです。このふたつの域内の“大国“にいわば置き去りにされた、「リトル・エイト」とよばれるバルバドスをふくむ残り8か所のイギリス植民地は、その後もしばらくのあいだ、今度は「東カリブ連邦」創設の道を模索しはじめたのでした。

 いうまでもなく、独立国になるというのは単なる紙の上の手続きではありません。立法・行政・司法の制度を整えて、国民を食べさせ、税を徴収し、治安を維持し、世界各地に在外公館をつくって外交を展開し、外敵があらわれれば軍事力をもちいて自分で自分を守っていかなければならないのです(「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」等と憲法に書いてある変わった独立国もありますが・・・)。

 人口わずか数万から数十万人、砂糖産業以外にこれといった収入源がなく、人的資源にも限りのあったリトル・エイトの島々が単独で独立するにはかなりの勇気が必要だったのです。

 そのようなわけでリトル・エイトは連邦構想に未練があり、それぞれが単独で独立することをギリギリまで躊躇していました。バルバドスを率いることになったバーロウも1962年の時点ではこのように語っています。
「西インド諸島の経済・政治・地理的背景を理解していない人には、これらの島々がなぜ連邦政府のシステムのなかで一緒になりたいのかはわからないであろう。連邦政府システムにとりわけ合致する地域があるとすれば、それは東カリブの島々である。・・・私たちが血縁的なつながりで結びついているということはたしかだが、何にもまして私たちは類似した条件や経済的背景によって結びついているのだ」

 リトル・エイトの東カリブ連邦化の試みは、ジャマイカとトリニダードが西インド諸島連邦から離脱することがあきらかとなった1962年のはじめ頃から開始されました。島々の代表はイギリス植民地大臣レジナルド・モールドリングのもとで何度も連邦化構想推進会合を開き、連邦創設のあかつきには首都をバルバドスにおくこと、連邦内の移動の自由をみとめ関税同盟を発足させることなどにつき合意し、憲法草案まで作られていました。

 ちなみに、このとき連邦構想推進の理論面での知恵袋をつとめていたのは、当時、西インド諸島大学で教鞭をとっていたセントルシア出身のアーサー・ルイスという開発経済学の専門家でした。累次会合のためにルイスが優れた検討ペーパーを次から次へと書いてモールドリング植民地相に提出するスピードは驚くべきものだったというエピソードがのこっています。ルイスはのちに米プリンストン大学教授やカリブ開発銀行の初代総裁に転じ、1979年にはノーベル経済学賞を受けて黒人としては平和賞以外で初のノーベル賞受賞者となっています(註8)。

 偉才アーサー・ルイスの協力のおかげもあってはじめは順調にいっているかに思われた東カリブ連邦創設の試みが頓挫するきっかけになったのは「お金」の問題でした。

 リトル・エイトの島々は、東カリブ連邦創設後もむこう5年間はイギリスが無償での財政支援をつづけ連邦の財政基盤を下支えしてくれることへの期待を表明していました。ところがイギリス政府からは待てど暮らせど色よい返事が来ない。結局、回答がくるまでに2年が経ってしまったのですが、この2年間の遅れが東カリブ連邦構想にとって致命的なものとなりました。なにか大事なことを始める時には、あまり深く考えずにとにかく走り出してしまった方がよいということがままあります。2年間ぐずぐずしているうちに連邦化にむけたモメンタムが失われてしまったのです。

 この間に、宗主国の「善意」に猜疑心をいだいてフラストレーションをためたグレナダ、アンティグア、モンセラートが連邦構想から次々に脱落。そしてのこった五つの島のあいだでもしだいに意見対立が生じます。果てには1965年4月に開かれた会合で、連邦化プロセスに対するバルバドスの本気度を疑問視したセントルシアの指導者ジョン・コンプトンとバルバドスのバーロウが舌戦をくりひろげたあげく、怒ったバーロウが退席してしまうという事態となりました(註9)。

 これを最後に連邦化構想推進会議は二度と開かれることはなく、東カリブ連邦構想は失敗に終わりました。結果的にみるとバルバドス、そしてエロール・バーロウにとっては1962年から65年までの3年間は、早期の独立達成という観点からは失われた時間となったのでした。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その17) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い(続き)
(ノーベル経済学賞を受賞したアーサー・ルイス)

<コモンウェルス・レルムとしての独立>

 東カリブ連邦構想の破綻によって、バルバドスに残されたのは単独での独立という道でした。

 バーロウ首相が率いるバルバドス植民地自治政府は、1965年8月に「1962−65年の連邦に関する交渉」という白書をまとめます。白書は、東カリブ諸島の連邦化の可能性がついえたことを踏まえて、バルバドスが単独で独立するという選択肢をとることを提案していました。

 提案はバルバドス議会で承認され、議会は宗主国のフレデリック・リー植民地大臣に対して独立にむけた会議の開催を要請。これをうけて1966年6月にロンドンのランカスターハウスで「バルバドス憲法制定会議」が開かれました。会議に参加したのはバルバドス下院に議席をもっていた与党・民主労働党(DLP)と野党のバルバドス労働党(BLP)およびバルバドス国民党(BNP)(註10)という3党の代表者でした。ちなみにイギリス植民地省は、このときのリー大臣を最後の大臣としてこの年の8月に廃止され、その長い歴史を終えることとなります。

 ランカスターハウスの会議ではあらかじめ自治政府側が準備していた憲法草案の検討が行われ、独立後、2021年までつづくこととなる立憲君主制国家バルバドスの骨格が形作られました。その骨格とは、バルバドスが自らの立法・司法・行政機関をもつ独立主権国家であると同時に、コモンウェルスの一員であり、さらにイギリスの君主(当時はエリザベス2世女王)を元首として戴くコモンウェルス・レルムの国として出発するというものでした。そして、島には元首(君主)であるイギリス女王の代理として総督職が置かれることとなったのです。この会議ではさらに、独立の日づけが同年11月30日とセットされました。

 コモンウェルスというのは、イギリスとその旧植民地を中心に構成されたゆるやかな国家連合の名称で、世界各地にあったイギリス植民地が19世紀後半からしだいに独立してゆく過程で生まれた主権国家間の提携のひとつの形です。そして、コモンウェルス加盟国のなかでもコモンウェルス首長であるイギリス国王(または女王)を依然として自国の元首として戴く国はコモンウェルス・レルムとよばれます。(コモンウェルスは「イギリス連邦」、コモンウェルス・レルムは「イギリス連邦王国」などと和訳されることもありますが、一般的に定着した和訳とはいえず、また別の意味合いと混同される可能性もあるので、本稿ではコモンウェルスおよびコモンウェルス・レルムという言い方をそのまま用いることにします。)

 バルバドスは独立した時に26番目のコモンウェルス加盟国となったのですが、その時点でバルバドス以外のコモンウェルス・レルムはイギリスのほか、オーストラリア、カナダ、セイロン(現スリランカ)、ガンビア、ガイアナ、ジャマイカ、マルタ、シエラレオーネ、トリニダード・トバゴといった国々でした(註11)。いっぽうでコモンウェルス・レルムではないコモンウェルス加盟国、つまり共和国の形態をもつのはアイルランド、インド、パキスタン、シンガポール、ケニア、ガーナ、ナイジェリア、南アフリカ共和国などでした(註12)。

 さて、ランカスターハウス会議で新生バルバドスの骨格がさだまったのち、1966年11月3日に植民地時代最後の下院選挙がおこなわれました。エロール・バーロウのDLPは24議席中の14議席をとってふたたび与党となり、これでDLP党首のバーロウが独立バルバドス初代の首相となることが事実上決まります。いっぽう、BLPは8議席を獲得しました。BLP当選議員のなかにはグラントリー・アダムスもふくまれており、例の西インド諸島連邦の瓦解後、不遇をかこっていたアダムスにとっては4年ぶりの政界復帰となりました。

 選挙が平穏裡に終わったことをうけて、独立を実現するための法体系を整備する最終的なプロセスが急速に動きます。11月17日、イギリス議会は「バルバドス独立法」を採択しました。イギリスが宗主国としてバルバドスに独立を付与すること、そしてバルバドス憲法が11月30日をもって発効すべきことを定めたこの法の正式名称は「バルバドスがコモンウェルスの中において完全に責任を有する地位を獲得することに関する規定を定める法」というものでした。5日後の11月22日にはエリザベス女王によって、この法を同月30日をもって履行することを命じる「バルバドス独立令」が発出されたのでした。

<ギャリソン・サバンナの独立式典>

 こうしてバルバドスは英語圏カリブのなかではジャマイカ、トリニダード・トバゴ、ガイアナ(旧イギリス領ギアナ)につづく4番目の独立国となりました。

 独立式典が挙行された1966年11月30日。あいにくの雨天にもかかわらず式典会場のギャリソン・サバンナ周辺には数千人の群衆がつめかけ、ことのなりゆきを静かに見守りました。

 式典には独立バルバドスの初代首相エロール・バーロウ、最後の植民地総督となったジョン・ストウ卿(註13)ほかの要人にくわえ、旧宗主国イギリスの王室からはエリザベス2世女王の代理としてケント公爵エドワード王子が出席していました。

 バーロウは式辞のなかでケント公爵に対してこのように語りかけています。
「これはバルバドス民衆の歴史における誇るべき瞬間であります。私は、この記念すべき日を目にすることができる時にこの世に生を受けたことをうれしく思っています。政府のメンバーの皆も同様に喜びを感じていると確信するものです。・・・・バルバドス人、政府、若者たちを代表して、私は、この記念すべき日に女王陛下がコモンウェルスの首長であられたこと、そして独立の夜明けを通して私たちを見守るためにご自身の信頼できる従兄弟である貴公爵を当地に派遣してくださったことを、私たちがみな心から感謝している旨を貴公爵から女王陛下にお伝えいただけるようお願いしたいと存じます」(註14)

 この日の午前0時1分に国旗掲揚塔のイギリス国旗が降ろされ、かわりに「柄の折れたトライデント」を中央に配するバルバドス国旗が掲げられました。その際に、ストウ総督とならび両手をあげて独立達成を宣言する46歳のバーロウが着ていたのはイギリス空軍士官の公式行事用礼服でした。このことと彼のスピーチの内容は、バルバドスのイギリスからの独立が平和的におこなわれたと同時に、この島が同時点では引き続きイギリス女王を元首として戴くコモンウェルス・レルムの国として生きていく覚悟であったことを象徴していたと言えるでしょう。

 独立後のバルバドスはいくつかの試練を経ながらも、議会制民主主義に根ざす安定した国として成長してゆくこととなります。しかし、元首としてイギリス女王という外国人ではなく、自らの島の出身者を大統領としてもつ共和国になるまでには、その後さらに55年の歳月が必要でした。

「バルバドス 歴史の散歩道」(その17) 第9部 そして独立へ--トライデントの誓い(続き)
(バルバドス独立式典でのエロール・バーロウ初代首相と最後の植民地総督ジョン・ストウ)

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 バルバドスは独立の翌月、1966年12月には早くも国連に加盟しました。当時は米国とソ連を両極とする東西冷戦のまっただ中。カリブではその4年前にキューバ危機が起き核戦争寸前までいったという時代でした。

 コモンウェルスの一員として独立国の道を歩みはじめたバルバドスではありましたが、国連加盟に際しての初代首相エロール・バーロウによる国連総会でのスピーチからは、小国ながらも現実的な自主外交を進めていこうとする気概と誇りを感じることができます。

「我々は不毛なイデオロギー対立に加わるつもりはない。それは我々が力による外交ではなく平和と繁栄をめざす外交の擁護者だからである。我々は個別の論争において、自分自身が納得するまでは、いかなる大国といえどもその言うことがそのまま正しいと受け取るようなことはしない。と同時に、諸大国が巨大かつ裕福で核兵器をもっているからというだけで彼らのことをいつも疑いの目で見るようなこともしない。我々はすべての国の友邦となるが、いかなる国の衛星国にもならない」

(第10部 「独立後の歩み」に続く)



(註1) “Reflections on Grantley Adams” by James Dottin, NATION NEWS, April 20, 2012

(註2) “Westminster’s Jewel, The Barbados Story” by Olutoye Walrond, P.127

(註3) イギリス自治領(ドミニオン)というのは、高度の自治権を有するものの法体制は宗主国イギリスの監督下にあるという支配形態の領土です。これは自治領の法案をイギリス君主である国王(または女王)が裁量で拒否できることを意味していました。1867年にカナダが最初の自治領となり、以降オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドと続きます。

(註4) このノーマン・マンリーの次男は、エロール・バーロウとともにロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで学び、のちにジャマイカの第4代首相になったマイケル・マンリーです。

(註5) フランシス・ムーディーはインド植民地での経験が長く、インド独立の際にイスラム教徒が多数であるパキスタンをインドから分離させることを主張した人物のひとりでした。1947年にインドとパキスタンが別々の国として独立した直後、ムーディーは元宗主国の植民地官僚でありながら、パキスタン・西ベンガル州(当時)の知事を2年間つとめています。彼はその後、東欧の社会主義国でありながらソ連と対立しコミンフォルムから追放されて苦境にあったユーゴスラビアに駐在するイギリス経済代表部首席をつとめ同国への武器供与支援などにたずさわったりしていましたが、東カリブの状況をみた本国政府により新たなミッションを任されることになったのです。

(註6) “Barbados, A History from the Amerindians to Independence” by F.A. Hoyos, P.228, P.266

(註7) アンギラ島は1825年からセントキッツ島(セントクリストファー島とも言う)の管理下におかれていました。1967年にセントキッツおよびネービスとともにセントキッツ・ネービス・アンギラとしてイギリス自治領になりましたが、アンギラはセントキッツ中心の政策への不満から1969年にいったん共和国として単独独立。しかしセントキッツの要請で派遣されたイギリス治安部隊に制圧されてふたたびイギリスの統治下にもどり、その自治領として現在にいたっています。

(註8) アーサー・ルイスはリトル・エイトによる東カリブ連邦創設の失敗要因について考察した論文 “The agony of the eight”(1965)をのこしています。彼はかつてカリブ開発銀行総裁時代に過ごしたバルバドスで晩年をすごし、1991年に76歳でこの島で亡くなりました。

(註9) このときエロール・バーロウと喧嘩したジョン・コンプトンは、のち1979年にセントルシアがイギリスから独立した際に、同国初代の首相になりました。

(註10) このバルバドス国民党(BNP)はそのご党勢を失い1970年に解党となりました。なおBNPの党首を長くつとめたアーネスト・モトリーは、2018年にバルバドス初の女性首相となったバルバドス労働党(BLP)党首、ミア・モトリーの祖父にあたる人物です。

(註11) このうちカリブ地域のガイアナ、トリニダード・トバゴについては、独立当初はコモンウェルス・レルムでしたが、それぞれ1970年、1976年に共和制に移行しています(コモンウェルス自体には引き続きとどまっています)。

(註12) 現在(2023年末の時点)、コモンウェルス首長はイギリス国王チャールズ3世。コモンウェルス加盟国数は56カ国。うちコモンウェルス・レルムは15カ国となっています。
また現在の加盟国のなかには、モザンビーク(旧ポルトガル領)、ルワンダ(旧ドイツ領・ベルギー信託統治領)など旧イギリス領でなかった国もいくつか含まれています。
なお、コモンウェルス加盟国同士のあいだでは、通常の国家間の外交と区別するために、外交使節団の長を特命全権大使とよばずに「高等弁務官」とよび、大使館のかわりに「高等弁務官事務所」をおくという慣わしがあります(たとえば、バルバドスに駐在するカナダ外交使節団の建物はカナダ高等弁務官事務所、その長はカナダ高等弁務官となります)。

(註13) 植民地最後の総督ジョン・ストウは、バルバドス独立後の1967年5月に引退し、後任として高名な医師であり上院議員でもあったウィンストン・スコットがバーロウ首相の推薦、エリザベス女王の任命によって総督に就任。はじめてのバルバドス出身、アフリカ系の総督となりました。

(註14) Daily “ADVOCATE”, November 30, Wednesday, 1966



(本稿は筆者の個人的な見解をまとめたものであり,筆者が属する組織の見解を示すものではありません。) 

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