インタビュー:株式会社エヌアイデイ 小森孝一 取締役最高顧問
――江戸の風情が残る佐原
問・小森最高顧問は佐原ご出身でありますが、昔の佐原の町並みや様子、佐原での思い出で何か印象に残っているものはありますか。
私は昭和九年に佐原に生まれたので、昭和十六年私が小学生だった頃に太平洋戦争が始まり、昭和二十年小学校六年生の時に終戦を迎えました。実際に佐原の隆盛期を見た訳ではないのですが、昔はとても裕福な町でしたよ。明治四十五年に発行された「千葉県金満家一覧鑑」、いわゆる当時の千葉県における富豪の一覧が載った記事があるのですが、それを見てみると、上位である大関や前頭に佐原の富豪の名があります。今ではあまり想像がつきにくいかもしれませんが、佐原はそれだけ裕福な町でした。これだけ佐原が栄えたのは、舟運によって米を始めとする様々な物資を江戸に運んでいたからです。米を使った酒や醤油の商売も盛んでした。
しかし、私が育った時代の戦時中は配給制度が佐原でも適用されたので、佐原の中心的な商業であった米・酒・醤油の商売をしていた多くの人たちは廃業せざるを得なくなり、佐原の中心産業は衰退していきました。ここで、佐原の隆盛は途絶えてしまったとも言えるでしょう。
私がちょうど中学一年生だった頃だと思います。当時から私は佐原のお祭りが大好きだったのですが、戦後お祭りに参加する若い人たちは戦争から生き残って帰ってきた人が多かったので、荒っぽい人が多くなっていました。そこから徐々に佐原の大祭は、派手で金食い虫の荒れる山車祭りと言われるようになり、「佐原三悪」の一つになってしまったのです。佐原の人たちもお祭りの意味を忘れてしまって、いつしかお祭りは佐原の人たちからも疎まれるようになっていました。お祭りが大好きだった私としては、このままでは佐原のお祭りが無くなってしまうのではないかと強い危機感を抱いていましたね。
――エヌアイデイの創業
問・昭和四十二年に佐原で「京葉計算センター」を設立されてから現在に至るまでさまざまなドラマがあったとお聞きしました。経営者として会社を運営されてきた中で苦労されたこと、印象に残っているエピソードを教えてください。
終戦からしばらくすると私の佐原の家に突然アメリカの軍人がやってきて、英語ができなかったもので何を言っているかさっぱりだったんですが、かろうじて「北川宗助」という私の叔父の名は聞き取れたんです。私の叔父はIBM(コンピューター関連の事業をしているアメリカの会社)で働いていたことがあり、IBMの七人の侍と言われるような人だったんですよ。戦後叔父が佐原にいるのを知り、横田基地から連れに来たんです。それだけ当時コンピューター関係の仕事ができる人は貴重でした。
その後、その叔父がやっていた会社で私の従兄弟や親類は皆働いたのですが、私は嫌だったので、働いていなかったのです。私だけ仕事をしていなかったので、「みんなで力を合わせて何かを作り上げる経験をするために、会社を作って仕事をしてはどうか」と言われました。ちょうど、叔父の会社で働いていた従兄弟が、叔父の会社を辞めて佐原に戻ってきたので、手伝ってもらって、キーパンチでデータ入力をする会社を作りIT関係の仕事に入っていきました。それが後にNID(Nippon Information Development Co., Ltd.)となる「京葉計算センター」です。当時としては最先端の仕事で、佐原には雇用の場がなかったので、佐原の産業振興のために従兄弟とがんばりました。失敗をカバーしながら片腕としてやってくれる人がいないとできないことに気づきました。
昭和四十二年に会社を作ってから徐々に軌道に乗り始めた頃に、日本は円高になってアメリカへの輸出が減ったので不況になったんですよ。この時は東京へ行ってもどこへ行っても仕事が無いような状態でしたね。でも経営者の責任として仕事が無くても従業員に給料は渡さなければいけなかったのでこの時は大変でした。本当に仕事が無かったので、東京からの仕事の電話を待って釣りをしていた時期もありましたね。すると、東京から電話があってA3サイズのアンケートのデータを入力する仕事の依頼があったもので、そのデータを全部持ち帰ることにしたんです。それまで半年近く仕事が無かった従業員は、(十九歳~二十歳の女性だったのだけれど)土日祝日も休まずよく働いてくれて、その年はその仕事で大儲けしました。そこで、十分大儲けしたからこの仕事は辞めようかということになっていたんですが、東京の叔父の方の会社が仕事が無くて大変なので合併しようということになった。それで合併してできたのがNIDなんです。こちらは東京の市場に進出できたし、叔父の方は仕事が続けられたので良かったですね。その頃は、ソフトウエアの時代になりつつあった時でしたが、理工系の人たちは少なかったから私の会社にとっては有利だったんです。当時はコンピューターの性能が悪かったものだから、そうゆう人たちが頭を使って仕事をしないといけないという点では苦しい時代でしたが。それが今ではIoTと言われるようになって、そういった人材は私の会社の財産になっていますね。
――佐原の町と佐原の大祭の復興
問・小森最高顧問が佐原の町や大祭の復興に対してどのように着手していきましたか?
私はお祭りというものが小さいころから大好きでしたし、何より佐原が大好きだったので、どうにか佐原の町を住みやすい「よい町」に変えていきたいと考えました。そこで手始めに私と友達の三人で佐原のお祭りの歴史を勉強し始めたわけです。資料を探しているうちに私たちは、諏訪神社の奥底からお祭りの引き継ぎ書を見つけ出しました。諏訪神社は、かの有名な長野県にある諏訪大社から勧請された平安時代の創建と伝わる歴史のある神社です。その古文書は中身だけでなく文字も古いですから、全部繋げ字なわけです。そのため、解読するのに素人では日が暮れるどころの話ではないんですよ。そこで、神主さんになんとか頼み込んで古文書のコピーを取りました。それを古文書の専門家やお祭りの歴史を知っている人などに託して翻訳してもらうのです。ですが最低でも二年かかると言われてしまいました。そこでは忍耐強さが身に付きましたね。
引き継ぎ書を解読後、佐原の祭りはまちづくりの出発点であったことがわかったのです。というのも、お祭りを開催することが自然とコミュニティ作りに寄与しているからです。佐原の大祭では、佐原を地域ごとに区分し、お祭り開催までの約一か月の過程で、山車に乗せる飾り物(大人形)を地域対抗で作ります。そうすると地域間の競争意識が芽生え、飾り物をより良くしようと地域内でコミュニケーションを活発に行うようになるんです。こうして周囲との仲間意識が出来上がっていくことで、地域で団結して助け合うコミュニティが成り立っていきました。それは部外者による空き巣犯罪者を摘発する防犯機能や、小野川氾濫といった災害があった時の防災機能を生み出しました。
しかし戦後の佐原の衰退とともに、佐原の大祭は、本来伊能家が意図していた「コミュニティ作り」という目的から離れてしまっているのではないか、という考えに行き着きました。防犯防災につながるなんて誰もわかっていないんです。だから私は佐原の大祭の本来の目的を人々に思い出してもらうために祭りの復興に着手しました。
問・佐原の大祭を復興させていくにあたって、どのようなことに取り組まれましたか?
先ほども申し上げたように、戦後十五~二十年頃における佐原の祭りはただ酒を飲んだくれて、喧嘩が絶えない場と化していました。だから次第に市民たちは佐原の祭りを疎むようになり、祭りの価値を見失っていきました。そのような人たちをいかにお祭りの復興に巻き込んでいくかが知恵の使いどころでしたね。彼らに協力してもらうためには、戦後から今まで行われていたお祭りは、本来のお祭りの目的とはかけ離れていたということをしっかり「伝える」という作業から取り掛かりました。
また、いかに佐原の大祭の価値を理解してもらおうかと三人で話し合った結果、「無料で見せるから価値がわからないのだ。ではお金を払わせよう」という発想が生まれました。この考えは日本三大祭りで有名な京都の祇園祭や秩父で開催される秩父夜祭などにも適用されています。「お祭りとは無料で見るものだ」という意識が根付いているので、その常識を覆すのにとても苦労しました。最初はチケットを販売しても一枚たりとも売れませんでした。ですが一度成功させることができれば、一気に佐原の大祭の価値が広まると考えたので、市民たちを巻き込んでの宣伝をし、業者に自ら足を運び、なんとかチケットを完売させました。お祭り当日の天気だけが不安要素だったんですがね、なんと神までも私に味方してくれて、復興着手後初の佐原の祭りは大成功に終わったんですよ。お金を払ってまでも見る価値のあるお祭りだとみんなが認識してくれました。
この成功の裏には、祭りの復興に携わってくれた佐原の市民や、お祭り終了後に清掃の手伝いをしてくれた自社の社員など、多くの人の支えがありました。翌年は三時間でチケットが完売し、佐原の地元民が買えなくなるほどになったんです。それだけお祭りの価値を理解してくれる人が増えたんだと思います。その意識の変化が目に見える結果として、平成十六年には佐原の大祭が、国の重要無形民俗文化財に指定され、平成二十八年にはユネスコ無形文化遺産に登録されました。
(お祭りの様子)
問・佐原の大祭を復興される際に、伊能家の考え方を参考にされたのですね。伊能忠敬さんは佐原の町の自治にも携わったそうですが、まちづくりにおいても彼の考え方に影響を受けたのでしょうか?
はい。忠敬先生の考え方はまちづくりを行う上で大変参考になっています。先生が若い頃佐原には役人がいなかったそうで、「役人がいないなら自分たちで自治を行おう」と言って町人自ら自治の先頭に立たれたそうです。その精神は今なお佐原に受け継がれており、まちおこしが市民主導で行われているのもそれ故でしょう。
また自分自身、忠敬先生について調べれば調べるほど、忠敬先生は心が豊かで、人に対する優しさを十分に備えている人だった。そのことがよくわかる先生の言葉があります。「地域が良くならなければ、自分も良くならない」というものです。先生は常に豊かな心を持つことを大切にされていました。そのためには自分が生活する地域が豊かで住みよい場所であるべきだと考えられたのでしょう。先生は佐原の自治に尽力されましたが、それは自分や、佐原の人々の心を豊かにするためでもあったのです。町の豊かさは、そこに住む人々の心の豊かさにつながり、逆に先生のように豊かな心を持っていなければ豊かな町を作ることはできません。この考え方はまちづくりにおいてとても大切なことですね。
――小森最高顧問の理想
問・会社の経営や町おこしを行うにあたって、小森さんが大切にされていることをお聞かせください。
やっぱり「人」ですね。人を大切にし、人を信頼することが何よりも大切です。自分がNIDの社長をしていた時、私は社員を信頼して仕事を任せていたんです。何か頼まれたり聞かれたりするまではこちらから何も言いませんでした。社員には自分で考えて行動してもらいたかったからです。そして社員のことを信頼していたからです。その結果、社員が成長し、良い人材が会社に揃いました。そのおかげで会社が手掛ける事業の幅も広がったんです。
また先ほども述べましたが、京葉計算センターの社長として勤めていた時、仕事が全く無かった時がありました。その後幸い仕事が舞い込んできたんですけど、そうしたら社員が今までの分を取り返すと言って、休日も全員出勤して一生懸命働いてくれたんですよ。そのおかげで会社は大儲けしました。会社は「人」です。人なくしては成り立たないし、良い仕事ができません。大変な時期を乗り越えることもできません。まちおこしも同じです。私は自分が大変だった時、いつも人に助けられてきました。だから自分も、どんな時でも人を大切にしようと思うんです。
また、「忍耐」と「パフォーマンス」も大事です。「忍耐」について話すと、私は会社をいくつか作りましたが、どれも六年くらいはずっと赤字が続きました。でも、いつかきっと良くなると信じて辛抱強くコツコツ頑張るんです。そうすると、七年後くらいから黒字に変わるんです。大変な時も我慢してあきらめないこと。努力し続けることが大切ですね。「パフォーマンス」については小野川の例があります。今でこそ佐原の観光資源となっている小野川ですが、昔はゴミだらけでした。自転車なんかがたくさん沈んでいたんですよ。そこで、きれいな小野川を取り戻そうということで私と十数人のボランティアで川の清掃を行いました。最初、町の人たちは「またあの人たち変なことをやってるよ~」と冷めた目で見ていましたが、川が日に日にきれいになり、四十年ぶりに舟運が再開されました。川沿いには柳の木も植えられ、風情が良くなりました。すると、市民の人々の姿勢も変わったんです。今までは多くの人が川にゴミを捨てていた状態でしたが、捨てる人がほとんどいなくなったんです。ごみを捨てないように意識するようになり、捨てている人を見かけると互いに注意するようになりました。なぜなら、私たちが一生懸命川の清掃をしていたことを見て、自分たちが川を汚すことに抵抗感を覚えたからです。自分たちの頑張りを人は必ず見ています。そしていつしか協力してくれるようになります。だからこそ、人に自分たちの頑張っている姿を見せることは会社経営やまちおこしなど、人を動かす場面においてとても大切なことだと思います。
(第4回「Sawara Experience」にて)
理想は、より質の高い歩行空間を作ることです。佐原から近隣に出て行った若者たちが、自分の子ども達を連れて佐原のまちなかに安心して遊びにくるような上質な歩行空間です。先ほども紹介した伊能忠敬先生の「地域が良くならなければ、自分も良くならない」という言葉。これは、佐原のまちをより良くすることは、市民をより豊かにすることにつながることを示唆しています。私はこの町が大好きです。だからこそ、この町の質を向上させ、より多くの人の心を豊かにしたい。そしてより多くの人に自分が愛する町を好きになってもらいたいですね。
(小森最高顧問(中央)とインタビュアーのAPICインターン生たち)
佐原商工会議所顧問。株式会社エヌアイデイ取締役最高顧問。
佐原の大祭を始めとする佐原のまちづくりの牽引役として尽力されている。また、初代佐原の大祭実行委員会会長であり、NPO法人まちおこし佐原の大祭振興協会理事もされている。
(※ 2019年1月時点)
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